二 君がため惜しからざりし(4)
そうやって夜じゅうこれまでの隙間を埋め合わせるように睦み合っていたふたりだったけれども、何とはいっても父親の知らぬ逢瀬である。
東の山が白み始めるよりも早い時刻、彼は心を残しながらも仕方なく由子の茵を後にした。山科は泣いてしようがなかったが、その頃には覚悟を決め、「若君と姫様はそうなるご宿縁だったのでしょう。そうとなれば乳母もお供いたします」と涙を拭いて、彼を見送った。帰り際、道時ひとりは次第を知って、これはただごとでは済まないだろうと嘆息したものの、何しても手遅れだった。
明日も必ず来るから、と義孝のする二夜めの約束にも彼女は微笑んで頷いた。もう怯えはない。彼が去ってから間を置かず、後朝の和歌が届く。早い方がよいとはいっても、さすがに早すぎる。自宅ではないだろうし、どこで認めたのかしらと、由子は嬉しくも不思議に思った。
―― 君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ほゆるかな
愛を得るとは、なんという僥倖なのだろう。彼女は彼の心を手にして、自分の幸いを噛みしめずにはいられなかった。
―― 君に逢えるのなら惜しい命とは思っていなかった。でも、会えた今は長く生きて、もっと君と一緒にいたいと願っているんだ。
私こそ、惜しい命とは思わない……。そう心を新たにした彼女だったけれども、夕暮れ前には厳しい現実に相対することになった。
幾ら荒々しい風雨とはいえ、同じ屋敷の中で起きたこと。知られぬままでいられるはずはなかった。何やら様子がおかしい、と遠ざけられていた一部の家人が事態に気づき、主人への注進に及んだのだった。
可愛がっていた義孝と鍾愛の娘に裏切られた惟正の怒りは、古くから付き従う家人ですら見たことがないほど激しかった。
惟正としては、内心では子どもたちに同情していた。とはいってもすべての念願が果たされる者ばかりではない。双方とも成人し、特に義孝は父の喪失という大人への通過儀礼を経験して、道理を弁えられる年齢になったと信じていたがゆえに、余計に源中将の憤りは強かった。
彼は当日の予定をすべて取りやめて自宅に立ち返り、娘に出かける支度を強要した。
「もう
「こんな不始末をしでかすようでは二条の屋敷には置いておけない。しっかりと反省をするまで、叔母君に預かっていただく!」
本宅から遠ざけることを断固として宣言し、彼女の言い分は一切聞かなかった。
娘への仕打ちがきつくなってしまったのは、怒りの矛先を向けられる相手が彼女しかいなかったせいでもある。乳母にしても義孝にしても、最初から夜這いを画策していたわけではないし、屋内に一時待避させた判断は正しいともいえる。これで義孝が病でも得て寝ついてしまえば、娘の仲が秘やかに噂されていることもあって、非常の際にもここまで拒絶するとはなんて冷酷な男なのかと、惟正が指弾されたかもしれない。
だからといって、娘が淫らに男を引き入れた、などと世間に思われることは絶対に避けたい。怒り狂ってはいても、惟正は愚か者ではない。事実だろうと憶測だろうと、ふたりの関係を追認はしない。娘の不在は、「以前からの予定」と周囲には説明し、曖昧な噂のうちに否定の意志を覆い被せておく。
そのために、彼女の叔母を頼ったのだった。
疑いはあったとしても、事情に詳しくない出入りの者は朝からの慌しさは姫君の外出のためだったのかと納得し、不自然な空気もうやむやに霧散した。
それにこの訪問は、これまでどう言い聞かせても、所詮世間を知らない小娘でしかない由子に世の中を教える良い機会になるかもしれない、と彼は計算もしていた。
多少の懸念はありはするが……。
そうして彼女は、一条大路と土御門大路に挟まれた、北辺三坊にある叔母の住まいへやってきた。屋敷の所有者は、ときの右大将・藤原兼家である。
由子の母は、藤原国章の長女として生まれた。その後、十年以上経って国章の末子として誕生したのが、現在、兼家の妾妻となっている叔母であり、今は父の赴任地にちなんで近江と呼ばれている女人だった。由子の母もとても美しい女だったのだが、近江は「当世の傾国」とまで評される美女だ。彼女の魅力は姪の由子にはぴんと来ないけれども、どうもそれは「男好きのする女」ということらしい。妻や愛人には不自由しない色好みとして知られる兼家ですら、すっかりのめりこんでいるので有名だった。
実のところ、近江は右大臣・師輔の三男である兼家に妻として遇されるほど生まれの高い女ではなかった。以前は、師輔の兄に愛人として囲われていた程度の女である。国章は晩年、美しい家女房を愛人としており、近江はその腹に出来た娘だったからだ。にも関わらず、兼家は正式に妻として婚姻し、その寵愛も年々深くなる。なんて幸運な女なのだろうと、巷ではもっぱら評判の幸い人なのだった。
叔母といっても姉よりも姪の方が年齢が近い近江は、姉妹のない由子にとって姉ともいうべき存在だった。惟正が国司赴任から戻ってのちは、季節の折々に交流を持っている。いつかの乞巧奠ではまだ国章の許にいた彼女と過ごしたのだけれど、織女に裁縫の上達を願う女たちを前にして「そのようなもの、上がれば上がっただけ面倒、だわ」と平然と口にする変わった女でもあった。そうはいっても何もできない不器用者というのでもない。
そういう天真爛漫な性格が、兼家に愛された理由かもしれない。おかげで兼家の妻のひとりとして長く関係している藤原倫寧の娘などは、彼女をひどく毛嫌いしているというので知られていた。当の近江の方はというと、妙な忠義心を発揮した女房がどこからか聞き込んできた倫寧の娘について話をしても「まあ……。頭の良い方ねえ……。女人も文章生になれたらよかったのに」とちぐはぐな返事をする有様で、まったく取り合っていなかった。
由子には、どこまでが本気なのかさっぱりわからないのだけれど、それはともかくとして、彼女は叔母が好きだった。義孝とのことを聞いても、彼女を責めないのは叔母だけだったのである。むしろ、「あの藤少将がねえ……。まあ、大胆なこと」と好ましそうにころころと笑った。
彼女が暮らす邸宅は、もともと藤原安親という公家の所有で、その異母妹であり、兼家が嫡妻に据えている時姫が長らく使用していた。数年前、彼女が兼家の本宅に引っ越して以来、そのまま兼家に献上された形になっている。そこに愛人である近江を引き入れる兼家の神経は、若い由子でなくても理解できないものだが、気にしない近江も近江であった。一番不愉快に感じそうな時姫も異議を申し立ててはいないということなので、ますます彼女にはわからない。
兼家は惟正の上司に当たるので、日ごろから付き合いは深い。それでも、居候先として近江の棲家を選んだのには、それなりの意図があるだろうとさすがの由子も察していた。
自由な気風の叔母ではあったが、彼女なりに一線はあった。姪が寄宿するというので、要らぬ好奇心を出した兼家が近江をいきなり訪問したことがある。前駆がやって来てすぐの訪れだったので、この時間差はわざとだったのだろう。姪を隠す余裕を与えないためだ。
彼のことだから、甥の義孝が執着している娘だということも耳に入っていたのだろう。御簾を隔てているとはいっても、相対してしまえばある程度礼儀は尽くさなければならない。親族でもない壮年の男など、彼女はふだん接することがない。煩わしいことだと迷惑に思っていると、由子のいる御簾の前までやってきた兼家に近江はさりげなく話しかけた。
「まあ……。甥君の恋人をそう面白がって……。罪な方」
あくまで近江は楽しげに笑う。
「亡くなられた兄上が枕元にお立ちになりますわよ」
「何を戯言を……。うむ、不自由はないか、そなたの機嫌伺いに来ただけだ。大丈夫なようだな。では、私は仕事に戻るとしよう」
迷信深い兼家は、言い訳をして慌てて退散してしまった。厚かましい彼であっても、可愛がってくれた兄・伊尹には後ろめたさを感じるようだった。あら、お早いこと、と近江はさらに面白がる。
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