二 君がため惜しからざりし(3)

 声が震える。


 もし、そうなら。


 邪な気持ちはなかった。ただ、彼女に逢いたい。彼女の顔を、この目で見たい。

 その感情に後押しされて、彼の身体はほとんど反射的に動いていた。御簾を翻し、彼には許されていない廂に足を踏み入れる。彼の暴挙に気づいた山科は背後から、「おやめ下さい!」と悲鳴をあげた。


 そこには。

 格子に寄り添うようにして、広廂を窺う乙女が佇んでいた。


「義孝様?」


 彼女もまた、彼の唐突な行動を予測しきれないでいる。本来、彼はそのような無作法をする人間ではない。黒い眸は大きく見開かれ、その美しいかんばせには純粋な驚き以外に何もなかった。当然味わってきたことだろう、憎しみも、悲しみも。

 それゆえに彼女は出会った頃のように清らかでもあった。


「千女君」


 分別はもはや彼を止められなかった……、彼女を目にしては。

 ふたりは引き寄せられるように袖を伸ばし、絡み合うようにしっかりとお互いを抱き留めた。


 何年ぶりだろうか。

 義孝は、やっと腕に愛しい女を抱くことができた。


 幼い日に誓い、想い、心ならずも裏切り、それでもなお、諦めることができない。

 そうだ、彼女を忘れたことなど、一日だってなかったのだ。


 除目にあえば喜びを分かちたいと願い、父を喪えば傍らにいて欲しいと望み、愛し子であるはずの息子の成長ですら、何故彼女とともに見ることが叶わないのかと落胆する。


 人として誉められないことだ、と頭の奥で理性が声をあげる。善き妻であろうと努力している寧子に対して不誠実だとも。けれど、想いを止めることができない。

 彼女でなければ、駄目なのだ。


 彼は思い知らされる。

 この、腕にいる女でなければ、彼の心に花は咲かない。


 どれほど巡ろうとも、春は訪れない。


「ひどい方」

 袖に顔を埋めて、彼女は彼を非難する。


「この上、私に恥を忍べとおっしゃるの?」

 そう言って見上げた筒井筒の恋人は、その言葉のようには彼を責めてはいなかった。彼女にとっても、同じこと。どれほどの理屈を並べても、彼の前ではまるで無力だ。


 随分と男らしくなられた。

 噂には聞いていた。父は教えてくれなかったけれど。


 もともと美しい若者だった彼は、青年らしい容姿に端正さを増している。ほっそりした骨に、しっかりと筋肉がつき始めていること、彼女を捕らえる腕からわかる。際だつ賢さからも先々を期待されているという。でも、瞳に映る彼の表情は、よく知った幼い恋人のままだ。


「そう……。恋はむごいものなんだ」

 彼は瞼を閉じて、そっと彼女に口づけた。


 抵抗はない。

 すっと受け容れられる感覚があって、彼女の香り、その柔らかさ、温かさが彼を満たす。


 しかし、山科からすると、無粋とはわかっていてもやめさせずにはいられない。外に悟られぬよう声を潜めて「およしになってください。どなたにもよいことにはなりません」と袖を引いて必死に諫める。


 だが、一年どころではない、数年を経てようやく出会えた男女を引き離すなど、そうそう容易くできるものではない。


 すまない、山科、と彼は謝ると、乙女を抱き上げ、巻き挙げた御簾をぐっと潜って奥の部屋に入っていった。

 帳台のとばりを降ろしてしまえば、慌てふためく乳母の声も遠くなる。


「雨が……」

 恋人をしとねに置いた後、自身は畳の縁に腰を下ろして、じっと見つめている彼に、彼女はそう囁いた。


「なあに?」

 甘く優しく彼は答える。いつまでも彼女を目に収めていたい。星合の空を約束した少年の頃のように。


「雨が、強くて。何も聞こえないの……」


 父の諌めも、妻の嘆きも、人々の謗りや流言も、なにもかも。


 彼は微笑み、彼女の手をとって唇を当てた。

 どうして、この愛しい者と離れていられると僅かでも思ったのか。


「君を、妻にしたいよ」

 彼女の目元に初めて痛みが浮かんだ。


「本当にひどい方……。他の女を抱いたその腕で私を妻にしたい、そうおっしゃるの」


「ごめん」

 素直に彼は謝った。


「言い訳はしないよ……。私は聖人君子ではないし、それを補うに足る実力者でもない。ちょっと和歌が得意で、人より外面が良いというくらいの未熟な……、儒子じゅしに過ぎない」


 まあ。彼女に笑みが戻った。

「自分でおっしゃるのね、見目麗しいなんてこと」


 それが数少ない私の武器だからね、と謙遜なのか自慢なのわからぬ軽口を叩いた後で、彼はすっと真剣な表情を作った。


「だから、君には想いしか渡せない……、今のところは」

 もちろん、ゆくゆくは、自分が栄達すれば父君や兄弟の君たちにちゃんと報いるつもりだし、子が生まれたら嫡流になるよう手配もする。悲しませたりなんかしない……、できるだけ。でも、そんなことを口にしても今は絵空事。この時に、渡せるものは……。


 彼はそんなふうにいろいろ続けたけれども、彼女は指先でその唇に触れ、彼の饒舌を止めてしまった。


「わかっているわ。私は貴方にそんなことを求めたことなんて、ないのよ……」

 うん、と彼は頷いて、彼女の手を取った。そのまま押しやり、そうっと茵に倒していく。さらさらと、黒髪が流れて零れ広がる。


「わかっている。君は、常に誠実だった……。僕はひどい男で。でも」

 あの夜のように、彼は彼女に頬寄せた。


「星合の空を一緒に見たいのは、これから先も君だけだ」


「……。それも、知っているわ」


 瞳が潤むのを知って、彼は彼女のまなじりを拭った。

 知っている……。知っていても。


「それでも心細かったの……」

 ごめん、と彼はまた謝って、千女君、と彼女を呼びかけた。ううん、と乙女は首を振る。


由子ゆいこ……。由子よ。そうと呼んで」


 やっと愛しい者の名を知って、彼はこの上なく幸せそうに、そして、優しく微笑した。


「由子」

「はい」


 つまが問えば妻は応える。彼は彼女を強く抱きしめた。


 私の由子。


「今度こそ、必ず貫こう」

 もう迷うことはない。


 これはただひとつの恋。人は愚かと笑うかもしれないけれど、ふたりにとっては二度とない、唯一の恋。


 やっとこの手に抱きしめられる……。

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