二 君がため惜しからざりし(2)
義孝は、蔵人所で少しばかりの仕事を済ませてから月華門にある右近衛のに行くつもりだったのだが、その前に六位蔵人のひとりが「穢があったようだ」と報告したので、以降の予定はすべて中止になってしまった。
何でも右近衛府で犬が死んでいたのだけれど、気づかずに陣座に参上した者がおり、触穢が起きてしまったということだった。連絡が行き渡るのに時間がかかったせいで、誰が穢に触れたのか目下確認中なので、まだどちらにも出向いていない右近衛の者は自重するようにと申し渡された。
常日ごろ、休む暇もないのが蔵人である。これはいい口実になると、義孝は所用を済ませるために早めに内裏を後にした。
気軽な狩衣に替えてから、気心の知れた道時とふたり向かったのは、洛外は鴨川のほとりにある荒れ寺であった。以前から信仰心を持っていた義孝ではあったが、兄ふたりに続いて父まで失ったことで、さらに因縁めいたものを感じるようになっている。
しばらく前、用事で出かけた折りにぶらぶらと歩き回り、たまたま古寺を見かけた。庵といってもいいほどの小さな佇まいになんとはなし心引かれ、これも何かの縁だろうと、修復に助力すると決めた。父や兄の供養にもなるし、功徳も積めるという理由は一応の本心ではあったけれども、実際のところは、壊れたものを直す作業そのものが彼の心をも修復してくれるからにほかならない。親族の暮らす桃園のあたりとはまるで方向が違う、というのも関係しているかもしれなかった。
工人たちに差配を終えて、自宅に戻る頃合いには、すっかり日は落ちていた。帰りを急ぐふたりを追い立てるように雨も降り出す。とっくに春だというのに、冬を呼び戻したような冷たい雨粒で、彼らは道の途中でやむなく誰かの邸宅に備え付いた棟門で雨を凌いだ。
「止みそうにないな」
暗い空を仰いでみると、厚い雲が立ちこめて月は完全に覆われている。この様子では、当分は続くだろうと思われた。
「言う端からひどくなるようだ」
路面は夏場水を打ったときのようにしっとりと湿る程度だが、すぐに水たまりが生じて
「どこかで軒をお借りしましょうか」
屋根の小さな棟門では、そのうち雨足を防ぎ切れなくなる。その前に、という道時の提案は妥当なものだった。
「しかし、この近くで知人といえば……」
二条の源惟正邸がほど近い。一時避難にはもってこいではあるが……。義孝は少々気まずかった。
彼の婚儀以来、惟正との間で妻問いの話はさっぱりと出なくなっている。彼が抱いたばつの悪さに乗じて、あえて惟正は娘との関係をなかったものとして振る舞うつもりのようだ。それなりの身分のある妻を持った義孝に対する大人の対応だったのだけれど、未だ恋人を忘れていない義孝からすれば、勝手な言い分ではあるが、納得がいかない。
機会を見付けては彼女への文は送っているものの、返事はほとんどない……。というか、ない。気の毒がった乳母が代筆をしたり、「時間が必要なのです」と沈黙を取りなす言伝をしてくるばかり。そこへ父の訃報が飛び込んだものだから、その辺の事情はうやむやのまま、過去のこととして終わった話になろうとしている。
惟正はかねてより中将を帯びている。いまや義孝にとって公務上の上司でもあり、父との猶子関係を合わせれば、雨宿りを頼むくらい何ともない間柄ではあるのだが……。
「どうなさいます、義孝様」
ぶるっと、道時は身を震わせて尋ねる。空気もぐっと冷えてきた。
「おまえを病にしたら、橘の乳母殿に叱られるな」
ふっと気を緩めて、彼は決めた。迷うことがあるだろうか。今日は下心があるでない、ほんの偶発的な出来事なのだし、それに昼の穢があるので、惟正もとっくに帰宅している時間だろう。葬儀の際も、彼は変わることのない親愛の情を示してくれた。妙な遠慮は却って邪な考えといえるだろう。
姫を思えば、心は痛むけれど。
ところが、惟正邸に着いてみると、あいにく主は留守だという返事を得た。さらに、今日は戻らない予定だろうという。不在の間に上がり込むのは、いくら親しいとはいえお互い抵抗がある。そうはわかっていても、反面、雨足は強さを増しており、家人にしてもこのまま主人の友人を放り出すのも気が引ける……、と双方行き詰ってしまった。結局、折衷案として、東の車宿りにしばし逃れることになった。
ひとまずの雨はしのげたけれど、今度は寒さが義孝たちを悩ませる。雨は収まる気配もなく、むしろ酷くなる一方。さて、ここで一晩過ごしたならば、どんな噂になることやらと、ふたりは肩を竦め合った。
「参ったね」
「参りましたなあ」
寺の修復に尽力し、帰りがけには短くとも経まで唱えてきたというのに、この仕打ち。御仏の霊験はないものなのかねと、彼は笑った。
「もし」
ふいに後ろから女の声がして、彼は驚いて振り返る。とうに仲間内のくだけた気持ちになっていて油断していた。乳母の山科だ。
「ああ、これは乳母殿」
彼は軽く会釈した。桃園で千女君を預かっていた頃、彼女も一緒に暮らしていた。古くから知った顔なのだ。
「これは、お久しぶりです。お元気そうでなにより」
「ええ、ありがとうございます。少将様もご立派になられて……。と、ご挨拶に参ったのではございません。こちらにいらっしゃいませ」
周囲を気にしながらもふたりを急き立てる。ためらう義孝たちを子どもにするようにして車宿りから追い出すと、彼女は齢に似合わぬ健脚さで東の対にある南東の階に向かった。
「乳母殿、それはいかがかと……」
そんなつもりで来たのではない。軽はずみに上がってしまえば、自分はともかく、彼女の名誉に関わる。なにしろ、父親がいないのだ。けれど、山科はただただ、お話は後でと言って、彼の制止を聞かない。仕方なく指示されるまま階を上がり、東の対の孫廂に入る。
するとそこは壁代を掛け、几帳を立てして即席の曹司が設えられており、乾いた衣服と火の入ったまで用意されていた。山科は、義孝の濡れた狩衣に、すっと掌を差し伸べる。
「少将様が病にでもなって倒れられたら、どなたにも良いことはございまえん。私どもも、殿のお叱りを受けることでしょう。こちらの若君の狩衣で申し訳ありませんが、どうぞお着替えください。濡れた衣よりは、随分ようございます」
義孝と道時は顔を見合わせて戸惑ったものの、遠慮なく厚意に甘えることにした。支度を手伝うのは従前より知った数人の女房に限定するという気の配りようだ。人払いをきちんとしているあたり、彼女たちも細心の注意を払っているのだろうと、彼らも安心できた。
すっと近寄って甲斐甲斐しく道時を世話する、女房に成り立ての少女は、彼の異母妹である円君だった。
「お兄様」
嬉しそうに彼女は微笑む。この一年でずっと女らしくなった妹と思わぬ面会ができて、道時は目を細めかけた。けれど、即、義孝を気にして表情を引き締める。彼と惟正の娘が疎遠になってしまってから、道時も妹にゆっくり会う時間を持てないでいた。
「乳母殿」
山科を呼んで耳打ちする。少しお待ちください、と彼女は答え、一度、もうひとつ内側に入った廂へ姿を消した。すぐ戻ってきて、女房に几帳の向こうに別な空間を作るよう命じる。
兄妹水入らずで再会させてやろうという気遣いだ。道時と妹は義孝に一礼してから新しい部屋に移動し、ほどなく明るい話し声が漏れ聞こえるようになった。
家族の仲の良い語らいは心が和む。今の義孝には、どうにも縁遠いものだ。彼も往時を胸に頬を緩めたが、ふとここまで細やかな采配をするのは誰だろうと疑問に思った。てっきり山科や古くからの家女房が独断で彼らを招き入れたのかと思っていた。よくよく思い返せば、これほどに周到に調度を用意させるのは使用人には無理な相談だ。
まさか。
東の対といえど、一番外側にある孫廂でのこと。奥に住まう姫君がそうそう近づくはずはない。彼女は深窓にいる。そうと思い込んでいたのだが。
そうだった。彼女は、建前など気にする女ではない。
彼は廂を見つめた。格子はほとんど下げられ、山科が出入りした一部だけ御簾になっている。そこにも人の気配はある。ただ、彼は山科を補佐する女房の誰かだと無意識のうちに受け取っていた。
姫がいる、と想像した瞬間に、固く封印していた想いが奔流のように吹き出した。
「千女君?」
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