二 君がため惜しからざりし(1)

 春も深まり、鮮やかな緑が萌え出て生命も芽吹く。桜花は散ってしまったけれど、次に控えるさつきの枝は蓄えた蕾を徐々に大きくして、自分の出番を待っている。そんな晴れやかな季節が、京にやって来ようとしていた。


 例年とは違って顔ぶれも減るはずだった今年の花見は強風のせいで取りやめとなってしまったものの、春は同じくやって来る。彼を祝福するように、天は心地のよい青と白とで調和を取り、爽やかな風で彼の頬を撫でて行った。


 義孝の父・伊尹が体調の悪化を理由に摂政と太政大臣を辞したのは、昨年の晩秋であった。そこから見る見るうちに容態が悪くなり、冬の初めには薨去した。あまりにもあっけない最期だったので、嫡妻たる恵子女王も息子たちも、何日もその死が受け容れられないほどだった。


 しかも、彼らが父を案じて祈祷の僧都や医師くすしの手配で煩忙を極めているまさにそのとき、病人の実弟である兼通と兼家は、長兄の退場によって空くであろう地位を巡って見苦しく相争っていた。


 藤原北家のお家騒動は、何も今に始まったことではない。古くは昭宣公・基経の時代から繰り返されてきたことではある。遡れば上古の頃にも当然あったものだろう。

 しかし、亡くなる間際くらい、静かにその人を想う時間を持ってもよいのではないだろうか。


 義孝は、これまで決して九条の叔父たちを嫌っていたわけではない。けれども、それ以来どうしても距離を感じてしまう。身近には感じられない。兼通らよりも年若である異母の叔父・為光、その他母方のおじたちが深く悲しんでくれたこともあって、余計に無常を感じてしまうのだ。


 祖父・師輔の死を契機に出家してしまった高光叔父の気持ちがよくわかる、と彼は思った。伊尹はよく目配りできる男だった。あれほどさまざまのことに心を砕き、息子の淡い恋に横槍を入れてまで、権勢を守っていたのに。死んでしまえば、ただ虚しく消え去ってしまうばかり。


 いっそのこと何もかも投げ捨ててしまおうか。自分も叔父の例に続こうか、などと考えないでもなかったのだけれど、さすがに生まれて一年にも満たない我が子に対して無責任に過ぎる。後見のない男子がどれほど心もとないものか、誰より実感している最中だというのに、到底その選択はできなかった。


 もっとも半年近く経つと、当初の強い悲しみは影を潜める。代わりに常に空虚さを抱えることになったが、それも同じようにおいおい薄れていくのだろう。花が咲けば美しいと思うし、楽しいことがあれば笑いもする。ただし、その心を過ぎる感覚は、もはや一年前とは同じものと感じられない。どこかで、虚しい、と同時に感じている自分がいた。


 ふと季節の移ろいにそんなことを思いつつも、彼は早朝、蔵人所に向かって歩いていた。今日も忙しい一日になるだろう。予感に答えを与えるかのように、少し手前に兄の挙賢の姿を見つける。


「兄上」

 声をかけて朝の挨拶をすると、彼もすっと内裏を巡る若葉に目をやってから、「やあ。今日も、また瑞々しい朝だね」と弟に答えた。性格はかなり異なる年子の兄弟ではあっても、今は思う心はひとつである。弟よりは剛胆さを多く持つ彼とはいえ、折に触れて父の不在を実感している。


 まだ、悲しみは癒えない。

 そうは言っても、四十九日以後、父の一条邸を本宅と定め、領地や邸宅をあるじとして管理し始めた挙賢には、しなければならないことが山積みで、そうそう嘆き悲しんでもいられない。さらにこの正月からは蔵人たちを束ねる蔵人頭になったことで、公務の面でも多忙を極めている。兄の力となるよう、義孝もさまざまに手助けはしているのだけれど、それほど力になれているとは思っていない。以前とは比べ物にならないほど、兄は精力的に仕事を片づけていく。その背中に父を思い出すこともある。


 近ごろは、一時期は酷く憤慨していた九条の叔父たちにも接近しているともいうし、まだ幼い弟も妹たちも控えている故一条摂政家としては頼もしい存在といえる……。一方で、義孝は自分にはそうそう真似できないなという遠い気分も抱いてしまう。


「そういえば、赤子は元気かい?」

 と言えば、先の秋に生まれた義孝の長男である。


「父上に孫の顔を見せられたのがせめてもだったな」

 そうだね、と応じながらも義孝は複雑な気持ちを禁じ得ない。あれほどに短い余命だったのだから、彼が不承不承受け入れた婚姻はとてつもなくよい親孝行になっただろう。亡くなった兄たちができなかった、男の孫を抱かせる、という喜びを病み衰えた父に与えられたのだから。


 けれど、そうであるからこそ、焦って結婚などしなければ、今頃はもしかして……、という後悔もある。家のため、父のためと決めたのに、たった一年で虚しく潰えることになるとは。


 人生は、まだまだ長いというのに。

 表情に翳りはなくとも、いろいろに考え込んでいるだろう弟を察して、兄は、ぽんぽん、と肩を叩いた。


「私のことより、兄上は」

 切り返すと、挙賢は屈託なく笑った。


「私は当分先になってしまったね。仕事に慣れるので忙しいし、一年は父上の服喪でもあるしね。それに」


 そこで声を潜めて「降嫁の」と囁き、

「話もこれで立ち消えだろう。まあ、しばらくは気楽に恋人おんなたちの家でもおとなうとするよ」

 物言いたげに微妙な顔になる弟を見て悪戯心がそそられたのか、彼はぐっと義孝に顔を近づけた。


「それとも、順当に私が保光殿の娘御と結婚していればよかったかな」

 意地の悪い笑顔でからかう。


「そうだね」

 眉をぴくりとも動かさずに義孝は即答した。真剣な声を聞いて、挙賢は逆にたじろいでしまった。


「おいおい。しっかりしていて、よい妻じゃないか」

 出産に舅の葬儀と、人生の重大事を慌ただしく経験することになった彼女は、気丈な態度で身内での評判を上げている。


「そういう良い女だから、父上を継いだ兄上の方に相応しいのかもね、というんだよ」

 挙賢はため息をついて、兄らしく義孝を窘めた。


「本気だと思われるじゃないか。おまえの空言そらごとは笑えないよ……。と、いうか、まさか」

 彼は怪訝そうに弟の瞳を覗き込んだ。


「まだ諦めていないのか、中将惟正殿の娘御を」

 義孝は返事をしなかったけれど、それが兄にとっては肯定になる。挙賢はほとほと呆れて、弟を咎めるように眺めた。


「おまえというやつは本当に」

 ふざけようとして、彼はそこではっと思い当たる。


 出仕を再開した新年からの義孝は、過去の大人しい態度が別人でもあったかのように積極的に宮中に顔を出している。おかげで、今まで話しかけたくても接点がなかった女房たちは、七殿五舎を問わずに色めき立っている仕方がない。新春も早々、梅壺では彼の差し入れた山吹の花から時ならぬ歌合の様相を生じたりもして、格好の話題となったし、今上帝である円融天皇は従弟ということもあって、宮中で起きた華やかな貴公子の振る舞いに幾度か興味を示して、挙賢に様子を尋ねることもあった。


 むろん、一連の行動は、父を亡くしたことで独り立ちしようと意欲を持って活動を始めたのだと、そう素直に受け取ってもいいだろう。だが、弟をよく知る挙賢は、そんなに単純なことではないなと、小さな違和感を覚えていたのだった。


 子を得たことで、父性愛にでも目覚めてくれたかと期待していたのだが……。

 伊尹の葬儀によって、保光の娘は義孝の嫡妻と見做されるようになった。そんな義孝が、他の公達の跡取り娘を手に入れるには、確実かつ相当な見返りが必要だ。


 たとえば、先の近江介・藤原国章くにのりは三位には届いていないけれど、大国の受領を経て財力を蓄えている。彼が次に狙うのは、やはり三位以上の身分になって参議として国政に関わることだろう。彼の手元に残る子は三十を数えてから得た愛娘ひとりで、多少出自は低いものの、本来なら重要な駒のはず。


 ところが、彼はそんな末娘に何人もの妻を持ち、息子たちも多い兼家を通わせている。それは兼家の権大納言という高い官職もさりながら、今は不遇とはいえ、帝の外戚となって大臣に手が届く位置にいる男だからだ。先帝に娘を入内させたように、今上帝にも娘を差し上げようと機会を狙っているともっぱらの噂だった。


 二十歳の蔵人少将である義孝とは、状況が違いすぎている。彼だってわかっていることだ。


 それなのに、本当にまだ?

 言葉を失った兄に、彼はにっこりと微笑んだ。では、と休んでいた足を動かして、蔵人所に歩いていく義孝を、挙賢は複雑な面持ちで見送った。

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