一 露降る星合の空(10)

 振り返る義孝は、美しい。


 まだ二十歳にもならぬ若者の、性の境界さえも曖昧に思える一瞬の時期に、彼は佇んでいる。人は誰しも、その時間を有しているのだけれど、すぐに過ぎ去って昔のものになる。


 もう、子どもではない。


 まだ、大人でもない。


 あばら家とはいえ軒先で父と話すわけにもいかず、義孝は上がるように勧めた。伊尹は靴を脱ぐまではせずに、古びたえんに腰掛ける。苔の匂いがした。あいにく白湯もありませんが、と申し訳なさがる息子を、よい、と手で制す。


「どうしても、我を通したいのか」

 頭から叱られると予想していたらしい義孝は、穏やかに問われて戸惑っていた。


「従姉の姫に不服があるのでは……。正直なところ、私は父上や叔父上たちのように多くの妻をもって、という生き方は馴染みません。複数の女たちをうまくあしらえるほど、器用でもないのです」

 そうだろうか。彼は自分を知らない、と父には見える。


「苦手だからしないで済ませる、というのか? 歌が不得手だから和歌を避ける。武芸ができないから弓を避ける、というように。だが、主上にお仕えする以上、それでは通らぬこともあろう」


「恋は生業なりわいですか」

 ははっと、声を立てて伊尹は笑う。


「違うな。しかし、婚姻は生業だ」

 はっきりと、父は言い切った。


「気に入った女を嫡妻にする男もいるし、実質、召人が北の方として振舞っている邸第もある。そういった男たちは、行く末を展望できぬほどの血筋か官位、あるいはすでにそれなりの地位にあるのが現実だ。おまえは、そのどちらでもない」


 どうにかしてよい官職にありつきたい男たちが育てている深層の姫君は、決して夢見る乙女ではない。将来性のある血筋のよい男を惹き付けて夫とし、両親の援助を得ながら夫を盛り立てていくことで親族の隆盛を構想する。彼女たちの背後には、父親や兄弟、伯叔父、甥たちの未来がかかっているからだ。義孝も、千女君も、そんな世界に属している。


 青臭く言い返そうとする息子の声に被せて、伊尹は続けた。

「後見たる私がよい顔をしていない状況で、果たして惟正殿は、一人娘をおまえにくれてやるものかな……?」

 痛いところを突かれて、義孝は黙り込む。


「ただの若き少将として、惟正殿に申し込んでみることだ。あれは、おまえを特に可愛がっているけれども、そうそう私情で目が眩まされるような男ではない。親の引き立てがない者が、どのような辛苦を味わうか、身をもって知っているからな」


 計算高い政治家の顔で、彼は息子に視線を投げた。果たして、そこまで考えたうえでの覚悟なのか、伊尹は義孝の本心を疑ってもいる。そこで、一時の恋情のせいで、などと追い詰めないあたり、彼は周到な性格をしていた。


 どのみち、惟正に娘を差し出せなどと伊尹にも強制はできない。何しろ、彼には満足に婚姻関係を結べる娘はひとりしかいない。受領を歴任し、やっと日の目を見られるところまでこぎつけた惟正にとって、娘の結婚は一家の今後を決定付ける大きな問題なのだから。


「それはともかく、保光殿の娘御を放置しているのは礼儀にも欠けることだ。気に入らなければ逃げ出して、それでよしとするのか」

 こちらが望んだ縁談でもないのに、いいがかりを、と義孝は少しむっとした。わかっている父は先回りをする。


「納得できない部分があるとしても、あの娘には何の咎もないことだろう。先のことまで考えがあるのか? それとも伯父君と姫君に恥をかかせたまま、私たちが折れるのを待つつもりか」

 これが思いも寄らぬ災難だというなら、道理を通して独力で周囲を説得してみせるがいい、と伊尹は冷静に言い放つ。


「それすらもできないのでは、子どもの癇癪と見做されても仕方あるまい」

 義孝は一言も返せず、唇を噛み締めた。父の指摘はいちいち正しい。


「それに……」

 駆け引きには巧みな伊尹は、すっと声を落として目を庭にやる。その先には、力ない風情で咲いている秋の花があった。


「気丈に振舞っているとはいっても、保光殿の娘御とて女性にょしょうだ。おまえを気遣って、涙を見せぬようにしているのではないか……」


 震える白い花びらは、言葉の真実を代弁しているかのようだった。父の残した話のそれぞれを思って、夜半まで義孝の心は乱れた。


 身内から見離され、中央から外れて国司として下る、そこまでの気持ちがあるだろうか。藤原北家に生まれ、師輔の嫡男として光の当たる場所を歩いてきた父親を持つ彼は、親の国司赴任についていった経験はない。人から鄙びた土地の土産話を聞くことはあったが……、話題としては興味をそそられても、いまだ南都に京があった頃と変わらぬ生活をしているという東国や蝦夷たちの国へ、自分自身が行くなど想像もできない。


 そうなったとき、惟正殿は千古君を許してくださるだろうか……。


 彼女はどこであっても義孝ととも在ると言い切るだろう、そういう女だ。けれども、惟正がすんなり許可するとは到底思えなかった。千古君には、元服を控える弟たちばかりが大勢いる。


 いいや、一つひとつ、解決するのだ。

 彼は気弱になる自分を叱咤した。


 伯父君と従姉君にわかってもらい、婿としては諦めてもらう。そのためには、何かしら自分に問題があった、としてもいい。それから、惟正殿にも話を通すのだ。数年かけてもいい、千古君に相応しい男だと、認めてもらおう。


 先が長くても、そうやってすべきことをあげていくと心も軽くなるようだった。

 ともあれ、彼は一度桃園に戻ることにした。


 長く訪れることのなかった保光の桃園邸ではあったが、昨日、家を出たかのように温かく迎え入れられた。そこはなんと言っても伯父の屋敷であり、近しく付き合ってきた時間がある。彼の胸は申し訳なさに痛んだ。


 義孝の頑な態度を不愉快に感じていた保光だったけれども、さすがにこれほど間が空くと頭も冷えていて、本人の意志を直接確かめなかった不手際を認めた。それでも、相変わらず義孝を婿としたいことには変わりがなく、義孝としては不義理を謝罪するほかなかった。


 保光は、後はふたりの問題だ、と言って、それ以上無理強いはしなかった。義孝は、寧子の許へと赴く。

 三日間、無理に進められた婚儀では、彼は妻戸の前に座して奥に入ることは決してなかった。離婚を申し出ようという今、こうして彼女の側に向かうのだから、皮肉なものだった。


「姫」


 姉として扱うのは、もはや非礼だ。きちんと、男と女として相対さなければ、と彼は生真面目に彼女を呼んだ。文机の前でうずくまるようにしていた小袿姿の女性がゆっくりと身を起こす。


「義孝様……?」


 声がおかしい。彼は訝しんで、もう一歩近づいた。先日の飄然とした彼女と異なり、顔を背けるようにして向かい合おうとしない。


「どうされたのです」

「いえ、何も」


 返した音は、確かに潤んでいた。驚いた衝動のままについ彼女の袖を取って身体を引き寄せると、その頬に幾筋もの涙の流れがある。


「私などのために、貴女が傷つかれることはありません」


 苦しくなって、彼はそう告げた。彼女は、寂しそうな微笑みを浮かべ、とん、と彼の腕を押した。以前は、とても大人に見えたのに、そうしている彼女は随分と儚げで、彼の胸は締め付けられた。


「貴方はただひとつの恋でいっぱいになっていらっしゃる……。私など、とはこちらの言葉でしょう」


 彼には言葉がない。


「貴女を軽んじているのでは、決して」


 それは……。激しい想いではないけれど。比べられるものでもないのだけれど。


 凛々しくて、美しい和歌を詠う従弟の君。男子に恵まれなかった保光には外腹にひとりいるくらいで、寧子は弟を持ったことがない。数多い伊尹の男子のなかで、好ましく感じていた義孝はいずれ義弟になるのだと、そう思っていた。ところが、以前から仄めかされていた挙賢ではなく、義孝にと望まれたとき、彼女は嬉しかった。嬉しかった自分に驚きもした。


「尊敬されたいと思っているのではありません。貴方はいつまでも、私を従姉としてしか見てくださらない……。そのことが悲しいのです」


 せめて、女として比べられるのであれば、諦めもつくだろう。義孝は、最初から一線を引いて、彼女を知ろうともしない。


 いいえ、わかっていた。寧子も、幼い義孝と千古君の恋を優しく見守っていたひとりだったのだから。あんなふうに自然に想い合うことなんて、自分たちにはまずありえないこと。だからこそ、その機会を得たふたりの幸いを祈りもしたし、羨ましくもあった。


 そう、羨ましかったのだ。


 それを認められず、理解のあるふりをして状況を利用しようとした。静かに暮らすことのみを願って生きてきた自分に、こんなに浅ましくて狡猾な面があるなんて、彼女は情けなかった。なのに、これで最後と思うと止めることができない。


「貴方のおっしゃるような恋ではなくても、私なりに貴方を慕わしく想っていましたのよ……、ずっと。貴方はお気づきにならないでしょうけれど。それは、いけないことでしょうか」


 はらはらと涙の粒が落ちていく。たったひとつと思い切ることは、他を傷つけることだ。それを彼はこの一月ひとつき余りではっきりと理解した。千古君のみを妻とする―― それは父を落胆させ、母を嘆かせ、この美しい人を泣かせてまで、どうしても手にしなくてはならない形なのだろうか。


 自分の我が儘ではないのだろうか。これが未熟ということではないのだろうか。


 彼にはわからない。


 千古君……。私の、可愛い人。


 義孝は恋人の面影を呼び起こそうとした。そうでなくては、目の前にいる打ちひしがれた佳人に手を伸ばしてしまいそうだった。少女の晴れやかな笑顔が、彼をぎりぎり引き止めている。


 表情を歪めた義孝の苦しみを知って、彼女は、恥ずかしいこと……、と頬を袖で拭った。


「見苦しいところを……。私のことなど、気にしなくともよいのですよ、中将様の、四の君」


 従姉妹たちは、彼をそう呼んでいた。寧子は、急速に従姉の姿に戻ろうとしている。

 想いばかりは、誰にもどうにもできないのに。哀れな女。そんな自分は知らなかった。


 取り繕い始めた寧子を前に、反対に義孝の胸は高まる。この期に及んでも、まだ彼女は姉君として彼を案じている。その風情はたおやかでいじらしい。愛おしくさえ感じた。


 沸き起こるほどに、千古君の姿態は薄れていく。


 これは同情なのか、幼馴染の従姉への情愛なのか。それとも。

 唐突に、彼は気付く。


 彼の要求は、彼女を捨てられた女にしてしまうこと、その不名誉は簡単に払拭できるものではないこと……。従姉は素晴らしい女性なのに、そうと知られることもなく、面白半分に噂は広がって彼女を傷つけるだろう。艶聞にうまく立ち回れるような、そんな父娘ではない。


 彼がそうするのだ。追い込んだのは伊尹たちだったとしても。


 そんな自明のことに思い至らないくらいに、彼は周りが見えていなかった。

 ふ、と彼女の香りが鼻腔に届く。


 母でも千女君でもない、別の女の香だ。


 彼には、この儚げなひとをこれ以上に悲しませることはとてもできなかった。


「恋は、差し上げられませんよ」

 堪え切れず、ついに彼は吐き出した。わかってもらえなかったとしても、は永遠に千女君のものだ。それは事実ではあったけれども、自身、言い訳だと知っていた。


 彼女は僅かに目を見開き、それから「ええ」と頷く。


「ええ、もとより承知しておりますもの。貴方には他に」


 彼は妻となった女の口を塞いで、言葉をも封じた。


 今夜はその話はしたくない……。きっと彼女は裏切られたと思うことだろう。その通りだ。詰られても、責められても仕方がない。けれど、彼は、これ以上親しい人たちを悲嘆に暮れさせることに耐えられなかった。




 それからほどない頃。


 年が新しくなる直前、伊尹の四男、右少将・義孝の室は子を宿す。涼しげな貴公子が筑摩君と呼んだ少女は、父の第でその噂を知った。


 頻繁ではないものの、彼から変わらず消息は届く。何か理由があるに違いない、きっと彼には考えがあるのだと自分に言い聞かせて彼女は、ようやく現実と向き合った。


 妻と子には触れもしない文ばかり……。彼女は乳母の山科が止めるのも聞かず、東の対から簀子に出て、読んでいない新しい手紙をびりびりと破いた。細切れになった紙屑は、北風に吹かれて飛んでいく。


 諦めないって言ったのに。


 殿方は、みな多くの女を欲するもの、だから短慮はいけないと山科は言う。そうだろうか。女ならみな、そういうものとして我慢しなければならないというのだろうか。


 男のさがなのだから、彼の想いは濁ることなく澄んだままだと、誰が言い切れるのだろう。


 ばか。

 彼女は呟いた。


「……。義孝様の、嘘つき」


 見上げた乾いた冬空には、白い月がひとり浮かんでいる。


 星合の空なんて、もう見ない。


 一生、見ない。

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