一 露降る星合の空(9)
「せっかくですが」
そう、とさしたる失望も見せずに彼女は応じた。
「まだ二晩もありますし。お気の毒ですけれど、妻問いの事実には違いありませんから、お気を変えられる猶予は十二分にあるかと思いますわ」
と、言い切られてしまうと、彼もちょっとむっとする。彼女に責はないとはいえ、飄々とした態度がどうにも他人事に過ぎて、無責任さを覚える。自分の人生を引っかき回されている、そういう気分になってしまう。
何にしても、これは難題だ、と彼は腕を組んで考え込んだ。寧子は彼に恋しておらず、至極理性的で冷静だ。味方ではないが、完全に敵ともいえないから難しい。
妻戸から簀子を盗み見ると、逢瀬の見張りという名目で、彼を逃がさぬ役割の者らが控えている。秘密どころか、広めたいくらいなのだから、明日にも千女君にも話が届くだろう。私を恨むだろうか。彼は表情をふと曇らせた。
彼女への想いは揺るぎない。彼女の心も真実だ。しかし、それのみで乗り切れるだろうか。嫌なことも聞かされるだろう。嘘が混じるかもしれないし、それを知って誠意から彼女を諭す身内もいるだろう。彼らふたりを取り巻く大人たちは周到で老練だ……、とても、とても。
彼の心配は的中し、翌日の夕刻にはもう惟正邸に夜這いの件は伝わっていた。風の噂などではなく、父の惟正が家女房たちに教えたのだから確実なことこの上ない。さすがの彼も、娘に直接話す勇気はなかった。
黙っていることもできずに、女たちはよく事情を知らない新参の青女房に損な役回りを押しつけた。さしたる配慮もなく伝えられた千女君はこれまで以上に嘆き悲しみ、今回は惟正とすら一言も口を利かなくなってしまった。
それでも、時間が経てば諦めて、態度も和らぐだろう。
惟正はそう展望した。
以前は見逃していた文のやり取りも、今は厳しく監視している。腕に覚えのある家人をさりげなく配置しているので、在五中将よろしく盗み出すことも適わない。連絡も取れずに噂ばかりを聞かされていれば、そうそう想いを貫くなど、できぬものだ……。
彼は人情をよく弁えていた。
ところが、数日後、予想だにしない報せが二条第に入る。
本人の心中はさておき、三日目の朝になって対外的には無事露顕も終わった。今後は実家と保光邸の双方を自宅とするはずの義孝は、そのいずれにも帰らなかったのである。
むろん、父親・伊尹の邸宅にもいない。
一日二日は、どちらの家でも彼の不在に気付かなかった。保光宅では頑なな義孝のこと、しばらくは抗いもするだろうと、そっとしておくつもりだった。実家である恵子女王宅では、家に戻らないのは新妻をやっと気に入ったのだと考えて、むしろそれを喜んでいた。たまたま、両方に出入りする家人がいて、お互いの話が食い違うことから発覚したのだった。
やれ、枇杷第か、それとも乳母子の橘道時の家に行ったかと探し回ったあげく、六日ほど経った日の夕方になって、紫野に近い小さな寺に身を寄せていることがわかった。律儀な義孝は公務そのものは続けていたので、居場所を突き止めることは簡単だった。
後をつけた舎人は戻って報告するように命じられていたのだったが、廃寺のような粗末な寺に入るところを目にして、すわ怪異の仕業かといきり立ち、つい「これはいかなることなのでしょうか」と義孝に詰め寄った。彼は驚きもせず、涼しげに答える。
「私に夢告があり、しばしの間、身を慎む必要があるそうなのだ。政務を怠ることはできないが、良い機会なので、それ以外の時間は祖父・故九条右大臣のために写経をしようと思うのだ」
わかったら、父上と母上にそうお伝えしろ、と舎人を追い払い、その後は何食わぬ顔で写経を始めてしまったという。その話を聞いた義孝の兄・挙賢と叔父の延光は「あいつらしい」と大笑いしたが、同席していた保光は若干気を悪くして、珍しく飲めない酒を仰いだ。
恵子女王はほっとしたこともあって気が遠くなり、伊尹は大変な不機嫌になった。
そもそも、女性関係の派手な伊尹にとって、義孝の一途さは理解しがたい。妻はひとり、など痴れ言にもほどがある。いや、本気でひとりの女しか娶らない気ではないだろうが……。そう思いはするものの、ふだんの姿から振り返ってみると本当に言い出しそうにも思える。だとしたら、それも頭痛の種である。もっとも、 当事者である妻の寧子は、まったく気にしていないのが救いではあった。
義孝の掲げた建前が建前なので、そうそう勘気を見せることもできず、伊尹は息子の好きにさせることにした。どのみち頭が冷えるには、時が要るだろう。持久戦だなら、自分が有利だ、と父は考えた。何といっても義孝は苦労知らずの御曹司である。けれど、義孝は一向に気を変えることなく、寺を住まいとした暮らしが十日、二十日と過ぎて行った。
もしや、そのまま出家でもする気ではあるまいな。
さすがに落ち着きを取り戻した伊尹に、新しい懸念が生まれる。
十五歳ほど年下の異母弟・高光が突如出家した事件は、昨日のことのように覚えている。母親が内親王という尊い血を受けた高光であっても、二十歳と少しで父親である師輔を亡くすと俗世を捨てた。
後見のない若者の先行きが、どれほど厳しいものであるか、彼はよくわかっていたし、親族でもある藤原北家内部の権力争いの過酷さも思い知っていた。近頃、高光のように政治の世界を離れて仏の教えに生きたい、と考える若者が増えているともいう。将来を嘱望されるような頭脳明晰で出自もよい青年に限って、そんな願いを口にしているとも聞いた。
そんなことにでもなれば、保光の娘にも、息子にも良いことはない。彼は思い直して、息子の許を尋ねることにした。
向かってみれば、そこは想像した以上に小さな寺であった。これからもっと寒くなるだろうに、どうやって冬を越えるつもりでいるのだろうか、と彼は哀れに思った。
山門に足を踏み入れたとき、経文を唱える声が流れ出てきた。久しぶりに耳にする義孝の声だ。よく手入れされた、けれども粗末で古びた板敷きに畳も敷かないで、姿勢よく座っている彼が見えた。すらりとした背筋が、余計に痛々しい。
この子は本気なのだ、と伊尹は思った。勘違いでも、一時の気の迷いでもない。本当に、惟正の娘と添い遂げたくて、彼なりに真剣にやっている。
なんて幼い……。
それゆえに純粋だ。
想いが真実なら。両親が許せば。神仏のご加護があれば。人と人の心が触れ合うとき、その喜びを偽りとは誰も考えない。本物は永遠だと思いたい。誰でも。
ともに若菜摘みした淡い初恋、などという儚いものを、美しいまま抱き続けるにはふたつの方法しかない。ひとつは想い出にすること。もうひとつは――。
ごく稀にそのどちらでもない僥倖に預かれる者がいる。彼らがそうなのかは、神のみぞ知る、だ。
もう子ども扱いはやめよう。
そうやって、彼らは大人になっていくのだ。
伊尹は、静かに息子を呼んだ。
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