一 露降る星合の空(8)
月明かりが漏れ零れる中、静かで聞き覚えのある声が響いた。
……。
やられた。
彼はぎゅっと拳を作る。
「これは、お久しぶりです。
本当に、と僅かに笑みの気配がして、「少将殿、さぞかし気を悪くしておいででしょう」と彼女は繋げた。童名ではなく、きちんと肩書きで呼ぶあたり、思慮と慎みの深い二番目の伯父とよく似ている。
それはもう、と、彼も妻戸の前に礼儀正しく腰を下ろし、距離を置いて彼女と向き合った。
「貴女に
「そんなに私を苛めないでくださいな」
さほど慌てる素振りもなく、彼女は答える。
「恋い焦がれた仲というわけではありませんもの。遠回しな当てつけは結構です。ご意見ははっきりおっしゃってくださって構いませんわ。ただ、父上やおじ様たちへの抗議を私にしていただいても、どうしようもありません。同じような身の上ですから」
彼は大きく息を吸って、裏切られた怒りをどうにか収めた。確かに彼女の言うように、文句がつけるなら、相手は彼を嵌めた父とおじたちである。一体誰がどこまでが関わっているのだろうか。ふっと、母の面影を思い浮かべる。特別に彼を可愛がってくれている実母を責めるようなことは、できればしたくなかった。
彼女は源保光の娘、要は義孝にとって従姉にあたる。物静かな伯父・保光の血を受けて、彼女は控えめで書を愛する女性だった。こんな悪巧みに荷担するような人ではない。
きっと、父が無理矢理におじたちに頼んだのだろう。
「私は、桃園弁君のことを素晴らしい女人と思い、姉とも慕っておりますが、妻にと考えたことはありません。というのは、私にとってこれと思い定めた者がいるからです。惟正殿の娘御を妻に望んでいるのはご存じかと思います。一緒に遊んだ覚えもありますでしょう、千女君と呼ばれていた少女のことです。だから驚いていますし、困惑もしています」
一気に話して、彼はふっと息を継いだ。
「 私にとっては、まさに驚天動地といったところですよ」
まあ、それは大変ですこと、と彼女は優しく返す。
「でも、誤解をなさっているようです」
意外な返事に、義孝は息を呑んだ。「私も遠慮なく申し上げますけれど」と、声色を一定に保ったままで、彼女は言葉を続ける。
「もちろん、幼い筒井筒のことは、よく存じております。私たちみんな、一緒に若菜を摘んだ仲ですものね。けれど、今回の仕儀は、決して私の気持ちを無視してのことではありませんのよ」
彼は戸惑った。従姉の返事が、予想以上にしっかりとしていたせいもある。流されるばかりの姫君だと思い込んでいた。
「覚えていらっしゃるかしら。昔、伊尹様はお酒をお召しになると、よく父上たちとこんな口約束をなさいましたね。嫡男の惟賢様に伯父である
それは、義孝も知っている。伊尹は妻の兄弟であり、代明親王の息子たちである重光、保光、延光との関係を強めたいと考えて、数多くもうけた息子たちの妻に彼らの娘を望んだのである。そこに義弟である延光の名が挙がらなかったのは、まだ娘が幼すぎたからに過ぎない。酒宴の冗談などではなく、実際、惟賢は重光の娘と結婚をした。イトコ同士の婚姻関係である。
「そのときは、それがもっとも順当な組み合わせだったのでしょうけれども、惟賢様が不慮の死を迎えられたことで、伊尹様のお心は変わられたのですわ」
まだ公表はされておりませんけれど、と注意を促して彼女は繋いだ。
「挙賢様には、先々帝の皇女、保子内親王様の降嫁をお考えのようです」
義孝は一瞬、呼吸を止めた。嫡男に相応しい、とはそういうことだったのだ。だから、兄に限ってはきちんとした妻の座を空けさせている……。
ありえない話ではなかった。保子内親王の母親は、恵子女王や保光たちと同じく、藤原山蔭を曽祖父に持つ。保子内親王の後見は外祖父である左大臣・
それにしても、強引な縁談ではあった。後見役の夫は挙賢のような若輩ではなく、ある程度地位も財力もある縁者がふつうだったからだ。
伊尹が秘密裏に進めているのも当然といえた。
「そういうわけで、私、振られてしまいましたの」
さしてつらくもなさそうに、ふふっと笑うので、義孝は慰めるべきなのか迷ってしまった。彼女も彼のためらいに気づいて、「お気遣いなく」と付け加えた。
「許嫁と言われるからそういうものと思っていただけで、私、特に挙賢様をお慕いしているのではありませんから。というよりも、結婚自体にあまり興味がないのです」
彼女の言い分はこうだった。
願いは、これまでのように父の許で静かに書を楽しみ、本を読んで過ごすこと。他の女人方と寵を競い合うような、そんな結婚は、たとえ入内であろうと望んではいない。それが叶うのならば、別に相手は誰でも構わないのだ、と。
「ですから、父上に伊尹様からの話があるとお聞きしたとき、構いませんとお返事しましたの。どちらかといえば、武勇に秀でた挙賢様よりも、風流を好む義孝様の方を好ましいとは感じてはおりましたから」
そんな動機で、と彼は言葉を失った。
「桃園弁君は、それで良いとおっしゃるのですか」
「
いいえ、その名では呼びません、と彼は首を振った。
「従姉君は従姉君です」
まあ。
彼女は密かに感心した。父子して呆れるほどの意地の張り合いになっている、と保光から聞いてはいたけれど、真実、彼は頑なだった。
それほどに想い合えるとは、まるで物語のようで羨ましい心持ちもするけれども、すべての人が恋をしなければ生きられないというものでもないと、年齢よりも老成した彼女はとうに悟っている。
「そう悪い話でもないと思うのだけれど」
冷静な口調は、余計こと義孝の気持ちを固くした。
「貴方が他所に妻を何人持とうと、私は気に致しません。我が父上の御為にひとりかふたりほど、お子があればそれでよいのです。他の女人がお生みになったお子を養子にしても構いませんわ。そうのように割り切ることはできないでしょうか」
そうだ、それはもっともだ。彼のどこかが彼女に賛同している。
彼らの結婚とは、程度の違いはあれ、そういったものなのだ。恋し恋された結果として夫婦となる例など、幾つあるだろう。仮初の相手であれば数は多いものかもしれない。けれど、妻として、ずっと一緒にいたいのは……。
彼女は、義孝の言い分は子どもの理屈だと看破している。駄々っ子に諭すように語り掛ける従姉の前で、彼は自分の未熟さを曝け出している気分になった。
随分と正直で、そして賢い方だったのだな。
彼は従姉の姫を見損なっていたことを知った。けれど、彼女の申し出を受け容れることはできない。
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