一 露降る星合の空(7)

 父の言葉も、義孝の気持ちを覆すことはできなかった。それでも、この恋の行方がとても険しいものであることは充分に思い知れた。


 伊尹の反対への有効な手だてもないままに、季節はまた星合の候を迎えていた。桃園第に千女君が預けられていたのは天徳から康保にかけての数年間。惟正の帰京後、一度ほど、乞巧奠へやってきたことはあるけれども、西宮左大臣が失脚した安和の事件があってからは一緒にその日を過ごしたことはない。政局の変化は、じわりじわりと親世代の周辺にも影響を与えている。


 星合の空を約束したのに。

 今年も虚しく夏は過ぎる。


―― 露降る星合の空を眺めつついかで今年の秋を暮らさむ


 物思いの合間にほとんど無意識に懐紙に書き付けて、いや、こんなものは彼女に贈るまい、と思い返す。侘しさが感染するだけだ。しかし、字面に籠められた寂寥感は、これまでに詠んだどんな和歌よりも心に沿っている気がして、彼は彼女からの消息にそっと挟んでしまっておいた。


―― 涙と露が降りる星合の空を今ひとりで眺めて、これからの季節、彼女なしでどう過ごせばよいというのか。


 もはや、見上げるのみではない。引き離されたふたつの星は、彼ら自身ともなっていた。


 七月、以前から打診があったように、兄と同じく右近衛府の少将となった義孝にとって、九月を迎えて惟正も右中将になったことは小さな幸運と思えた。同じ組織に属する上司、部下の関係である。


 が、仕事や個人的な付き合いでは変わらずに接してはいても、娘のことになると固く口を閉ざして、微笑むだけで一向にいい返事はもらえない。


 彼は挫けず、これまでのように文を送っては、必ず約束は守るよ、と恋人を励ましていたものの、父親の監視が厳しいせいか、和歌でもない、ごく短い文面でしか返事は戻らない。


 そうやって、やり取りが途切れがちになるのも、また切なさをいや増した。とはいえ、諦めようという気持ちには到底なれないのだけれど。


 次第に元気を失っていく息子を見て母の恵子女王も大層心配し、気を晴れやかにしようとさまざまに思いやっては働きかける。これは彼も堪えた。


 基本的に、義孝は母親思いの青年だ。恵子女王は結婚について「貴方の良いように」としか言わないのだけれど、夫の意向と息子の意志の間で板挟みされているのはありありと伝わってきた。


 彼女自身、早くに親を亡くしており、貴族社会での後見の重要性を実感している。


 そのような経緯があったので、母方の伯父たちが開く宴に呼ばれたとき、彼はさして迷うことなく承諾した。伯叔父というと、母の兄である右兵衛督・源重光、右大弁・保光、弟である権中納言・延光の三人のことだ。子どもたちは母方親族の許で育つ風習もあって、彼らとは父方よりもずっと仲がよい。


 母たちきょうだいが育ったのも代明親王の桃園第だったし、重光、保光はいずれも桃園と言われる広い地域のうちに第を構えている。ただ、延光のみは枇杷中納言と呼ばれた藤原敦忠に婿取りされたことから現在は枇杷第に暮らしているが。恵子女王も顔を出すくらいの内輪の集まりということなので、兄のどちらかの邸宅でと聞いても、いつものこと、と義孝は聞き流した。


 彼にしてみれば、少しでも父の目が届きにくい場所へ離れることができて、気が晴れる面もあった。真面目な伯父・保光宅での宴とはいえ、采配は風流人の重光がおこなったので、趣向も遜色ない。庭には今年最後の菊が数多く花弁を並べていて、彼の無聊を大いに慰めてくれた。


「時期から言うなら、残菊か」


 そう朗らかに杯を掲げる延光は、義孝とは意外に馬の合う親族だ。朗らかで人好きのする延光は兄弟の中ではもっとも遣り手の公卿でもあり、抜け目のない性格だったが、そんなところがどこか源氏離れをしている。藤原北家の括りでいえば藤氏離れをしている義孝とは、ちょっとした同類といえるからかもしれない。


 生まれた時から知った親族なので、彼にとってもごく気安い。杯が進むうちに楽の得意な重光が笛を吹きはじめ、「さあ、右少将殿、一首」と延光が焚きつける。延光も和歌が得意ということもあるのだろう、何かというと甥に詠ませたがる。


 義孝は酒は苦手な方だ。仕事絡みでは注意しているのだけれども、つい近親者と思って油断して飲み過ぎてしまった。和歌を吟じるどころではない。義孝は「もう充分過ごしてしまったようです」と勧められた瓶子の口を手で止めた。


 無様を晒す前に帰ろうと膝を立てたものの、途中で大きくよろめく。危ない、と彼を支えてくれたのは家主の保光だった。この伯父の肌は赤みすら帯びていないが、飲んでいないわけではない。


 彼ら醍醐源氏はみな酒がいける方だ。もっとも、学者肌で生真面目な保光は、華やかな兄弟に挟まれて成長したためか、常に自分を保てる程度に控えていた。


「しばらく休んでからにしなさい。母君もまだ居られることだし」

 どうかしたのですか、と几帳を立てた向こうで心配げに息子を窺う母の気配がある。帰ります、と断ろうとした義孝も、母の手前、その心遣いに甘えることとした。


 保光宅の家女房に案内されて、ふらふらと彼は場を退く。幼児の頃はともかく、ここ数年は訪れたことがない。少し造作に手を入れたのだろうか、どうも記憶と異なるな、などと思っていると、女房は格子を下げて夜支度を済ませた一角をすっと通り過ぎてしまう。彼女は、さらに奥の妻戸から中に入って行った。


 この先に仮の寝所をご用意しております、と女房は告げる。にしても、客を休ませるには入りこみ過ぎてはいやしないか。そう訝しみつつも付いていった義孝は、足を踏み入れた部屋ではっと息を呑んだ。そこに置かれた屏障具の向こうに、人の息遣いがある。


「これは、失礼。女房殿、場所をお間違えのようだ」

 振り返るも女はいない。がたん、と妻戸が閉じる音がして、彼の酔いも一瞬で覚めた。酒で鈍くなった五感も戻ってくる。立ち込めるのは、女のこう


「お待ち申しておりました」

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