一 露降る星合の空(6)
そう考えながらも、その可能性はないだろうとも彼は知っていた。父は恵子女王の腹から生まれた息子たちをとても可愛がっていたし、何やかや言っても、今までに彼の願いを叶えてくれなかったことなどない。彼は、自分が父の愛し子であることを充分弁えていたのだ。
が、その目算は、今回ばかりは外れてしまったのである。
惟正は、いろいろな思案の末に伊尹に事の次第を報告することに決めた。最後までためらいがあったのは、これで娘の恋が終わると確信があったせいだ。数多くもうけた男子と違って、一人娘に泣かれるとさすがに彼も弱い。しかし、親の強い愛をもってしても、下級官僚からの叩き上げであり、受領を経てようやく中央に返り咲いた惟正の判断が惑わされることはなかった。
息子の軽挙を教えられた伊尹は、兄の婿取りに加えて義孝の縁談をも真剣かつ速やかに進めるよう方針を多少変換したのだった。
そうとは気づかぬ義孝は、上品に育てられたおかげで妙な生真面目もあり、真正面から取り組む性質から、まずは自分の意志をきちんと父親に伝えねばならないと段取りを考えていた。惟正殿の娘御が欲しいと、はっきりと一度頼んでみる……。
今まではふたりの約束を当たり前として隠してもいなかったので、わざわざ伊尹に願い出ようとはしなかった。しかし、どうやらそういった甘えは通用しないようだ。彼女までの道筋に立ち塞がる父親という障壁が、彼にそう伝えている。自分が本気だとわかっていただく必要がある、と彼は決意を新たにしたのだった。
早いうちに時間を取っていただこうと思った矢先、忙しいはずの伊尹が桃園第にふらりとやってきて、義孝のみを呼びつけ、酒に付き合わせた。これはよい機会、と無邪気に挑んだ義孝は、即座に現実を思いさらされた。
杯を空けるや否や、息子に話をさせることなく、
「惟正の娘は許さんぞ」
と父は単刀直入に言い切った。瓶子を持つ指が滑って、つい取り落としそうになる。
義孝は努めて平静を装い、「いきなりどうされましたか」と尋ねた。
「父が、おまえによい相手を探しているからだ」
回答になっていない。酒の苦手な息子は、杯に口を付けただけで脇に置き、「妻くらい、自分で探せます」と答えた。
「だが、きちんとした妻を勝手に決めることは許さん。長男の
亡き兄上たちを持ち出すのは卑怯です、とは詰れなかった。長兄のことは幼すぎて記憶もあやふやになっているけれど、惟賢の兄を失ったのは五年も昔のことではない。彼が物心つく前から、次兄は三人の弟たちをよく可愛がってくれた。とても優れた人だと皆が褒めそやした彼を、義孝も大好きだったのだから。
兄を持ち出すのなら、こちらもと、彼は「さればこそです」と頷いた。
「すぐ上の兄が、まだおひとりの身。弟が兄に先んじることは、古来よりよくない例しとか」
したり顔で父に言い切った。伊尹は苦々しく、さらに杯に酒を注ぐ。
「あれはよいのだ……。ちゃんと嫡男に相応しい縁組みを考えている。そう簡単には進められぬだけのこと。私の跡を継ぐ者として、同じようにおまえにも将来を見据えて欲しいのだ」
義孝は、得たりと笑った。
「私もそう願っております。ですから、惟正殿の娘御を妻としたいのです」
伊尹はため息をついた。
息子の中で結論はでていて、何をどう説こうと受け流す気持ちしかないのだ。回転の速い父は、すぐにこれ以上は話しても無駄と判断した。
「おまえの見解など問題ではない」
家族には滅多に見せない酷薄な政治家の横顔をちらりと窺わせて、彼は宣告した。
「妻としたいなら、それは惟正殿に願い出て自分の力でどうにでもすればよいだろう。世の習いとして、男女のことに口出しは控えよう。だが、父の助力を期待するでないぞ。私の庇護を失ってまで求婚し、 それでも惟正殿がおまえを婿に望むかどうか、頭を冷やして考えるといい」
初めて浴びせられる冷たい言葉だった。義孝はつい息を呑む。
冷静に縁戚を選ぶのも、公家としては大切な仕事だ。そろそろ、その辺の理屈を息子にも理解させなくてはならない。そう伊尹は意図していた。
言い置いて杯を下げると「では、母上にお会いするとしよう」と呟いて、憮然とした息子を残し伊尹は簀子へと出て行った。
義孝は知るよしもないことだったが、伊尹と惟正の関係は少年時代に遡り、存外に長い。伊尹の祖母と惟正の祖父は時の右大臣・
本来、義孝の曽祖父である忠平は、一世源氏の源順子を妻としていた。皇女として生まれた順子は、その出自の高さから当然正室として重んじられたのだが、母方親族である菅原氏が没落するという政変の影響を受けて遠ざけられるようになった。
やがて、長男以降子ができないからという建前の下、忠平は能有の娘・昭子と結婚した。彼女との間に生まれたのが師輔をはじめとする三人の男子であり、順子との間にもうけた長男が今は小野宮第に住む実頼である。
忠平は愛妻・昭子の兄である
そんな相職の許に誕生した惟正は、もちろん伊尹たち兄弟をよく見知っていた。昭子は甥を可愛がり、よく自分の住まいへ招いたので、子どもの頃はどちらが目上と気にすることなく、伊尹と惟正は幼馴染として育ったのである。
惟正の状況が変わったのは、長じる前に父親が卒去したせいだ。強力な後見人を失い、彼は一旦は九条流と疎遠になった…… が、のちに左右の兵衛府に任じられ、さらに蔵人として出仕したことで旧交を温めることになる。一見、急接近に見える関係だったが、そこには過去の下敷きがあった。
とはえ、それは純粋な友情ばかりではない。
濃い血筋でも味方とは限らないし、必要ならば正室でも切り捨てる。逆に利点がなくなれば、縁は薄れてしまって物の数にも入らない。そういう現実を生き抜いてきた伊尹と惟正の関係は、善意のみ片づけられるものではなかった。
桃園が長すぎたのかもしれない。
伊尹は、妻の恵子女王の待つ対へと向かいながら、そうひとりごちた。
この界隈には代明親王の血縁者が多く住んでいる。かつては桃の御薗だった一画は、少年たちにとってはぬるま湯のような場所だ。自宅を出ても、すぐに誰かしら親しい縁戚の屋敷にたどり着く。出迎えるのは優しく、温かい人たちばかりだ。臣籍に降下したとはいっても、やはり源氏の一族はどこか浮き世離れしている。そう伊尹には見える。
それは、彼の弟たちが激しく憎み合っているからこそ、感じることかもしれない。
近郊に暮らす兄弟でありながら、伊尹の弟である兼通と兼家は互いを罵り詰りあう。そんな関係が良いとはとてもいえないけれども、肉親相手の過酷な競争もまた彼らの属する社会の真実なのである。
少しは伝わっただろうか。伊尹はまだ初心な息子の先行きを案じずにはいられなかった。
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