三 訪ぬる人をただにあらせよ(1)

 今年も七月がやってくる。


 由子から音沙汰はない。新春早々には、道隆の尽力もあって返事を受け取ることはできたものの、これが茵で睦み合った同じ女なのだろうかと一瞬本気で疑われるような冷たい内容だったので、さすがに彼も落ち込まずにいられなかった。

 却って悪いことをしてしまった、と道隆が気に病んだほどだったけれども、返事の合間に想像される事情を察して、義孝は「私は存外しつこい性格なんだよ。大丈夫さ」と取り繕った。彼女の状況は、よく理解している。彼だとて経験したのだから。


 その道隆も内侍所の気になる女こと高階氏の娘に夢中になって、男友だちとの間も疎遠になった。兼家の渋い顔にも関わらず、嫡妻にするのだといって正式に通い始め、ほどなく懐妊したと聞く。反対があるとはいっても、彼の恋路は、義孝ほどの難関ではないようだった。


 兄の挙賢が蔵人頭を兼ねているように、義孝も四月、惟正の後任として春宮亮に任じられた。道隆のとりなしのおかげで、惟正との仲も表面上は以前通りの穏やかなものになっている。一応のやり取りによって、双方の面目が立ったからだ。とはいえ、由子の話が禁忌であることには変わりがなかったし、現状が小康状態でしかないことはお互い了解していた。惟正は、このまま義孝が娘を忘れてくれるよう願っていたが、それは願望というものだった。とにかく、引継は滞りなくおこなわれた。


 現在の春宮は、義孝の姉・懐子が生んだ師貞親王である。祖父・伊尹を失ったせいで今ひとつ後見が心許ない皇太子ではあるが、才知には溢れていた。やっと十を超えたばかりというのに頭の回転が早く、和歌も絵画も人より優れている。難をいうなら気まぐれで、人とは異なる振る舞いを好んでする面があるのだけれど、その年齢と合わせて考えるなら、まだまだ成長途中だから、といえた。そのうちに落ち着いて行くだろうと周囲も見ていた。


 彼とともに近衛府に勤める面々も多少の異動があった。左右の大将は小野宮の頼忠と九条の兼家で変わらずに引き続いていたが、右中将は定員二名ともが入れ替わり、左大臣・源雅信の長男・時中、太政大臣・藤原兼通の四男・朝光あさてるが少将から上がっていった。


 年嵩であるとはいえ、一昨年には下位であった朝光が上臈じょうろうの義孝を飛び越えて急速に位を上げ、兼任する職務を増やしつつ中将に決まったのには、当然、叔父・兼通の威光がある。今や、世の中心は師輔の次男に移っていた。


 つい先年まで、その華やかな場所は義孝たちの舞台だった。内心、口惜しさがないではない。だが、それが世の習いというものだろう。彼にもまだ強みはある。次の天皇は甥御になるだろうし、伊尹の時代に心を寄せる人もいる。叔父の兼家もこのまま大人しくしているとは、到底思えなかった。


 さて、そんな恣意に満ちた人事異動があったせいで、四人いた少将が半分になり、こちらも新しく二名ほどが任じられた。小野宮の実頼が嫡流と決めた孫の実資さねすけが、そのうちのひとりである。


 生前、実頼は頼忠に物足りなさを感じていたらしく、三男・斉敏の子、実資を元服前に養子として内外に向けて嫡子であると喧伝し始めていた。そう何年もしないうちに実頼が亡くなってしまったので、頼忠の方は、老いた父が気弱になってしたこと、と気楽に捉えているようだけれども、そう見ない身内も多い。

 実資はごく若年から勉学にも優れ、観察力・分析力も鋭く、生なかな大人では太刀打ちできないほどの優秀な少年であった。晩年の祖父にきっちりと言い含められた彼には、小野宮を将来背負うのは自分だという強い自覚があり、また嫡流として正統であるということも意識していた。


 しかし、本人がどれほどそう気負っていたとしても、現状、政局の主導権は伯父である頼忠と九条の兼通が握っており、弱冠十八歳の若者には、どうこうできるものでもなかった。それが彼の出世にも影響している。


 伊尹の息子である義孝はさほど小野宮とは親密ではなかったし、これからも無理に仲良くする必要もないのだが、どちらも一度は主流と目されつつも現在は弾かれ気味、という境遇には共通項があった。


 そういう事情から、去年の夏、彼が右近衛府の少将となって以来、ふたりの間に少しばかり兄弟にも似た微妙な友好関係が生まれつつあった。義孝からすれば、一昨年元服したばかりの弟・義懐よしちかを連想する、ということもある。弟とは同い年なのだ。もっとも実資は義懐に比べると、かなり気むずかしい青年ではあるのだが。


 七月中旬になると、昔から相撲節会すまいのせちえが開かれる決まりだが、規模は近年縮小されている。辛うじて、全国から相撲人が集まる習わし自体が続いている状況である。義孝たちにとっては公務の一環に違いないので、期日が近づくにつれ、この時期に限って設けられる相撲司とのいきおい往復の回数も増えてしまう。春宮亮と蔵人をも兼任する義孝にとっては、文字通り目が回るような忙しい毎日になっていた。


「義孝殿」

 相撲司から書状を手にした実資が、ちょうど蔵人所に行こうと立ち上がった義孝を呼び止める。ここ数日、蔵人の業務が滞りがちだった。朝早く陣座に入った義孝は、午前中に目処をつけ、午後から蔵人所で仕事をするつもりでいる。詰所に宿泊することになるだろうな、と予感していた。


「この書状なのですが」

 どれ、と彼は年若の少将が示す部分に目を落とす。相撲人を貢進する国のひとつで天災があり、今年の役目を免じて欲しいと嘆願してきたのだそうだ。連絡が遅くなったのも、街道の整備に時間がかかったせいだとか。その影響で、近衛府が当日担当する誘導の次第にも影響が出る。よって、相撲司では連絡を受けてすぐに近衛府に通達したものだった。


「ここに間違いがあるようなのです」

 ああ、なるほど、と義孝は頷いた。そこの国司はかみのはずなのに、次官のすけの名で記されている。


「事情は聞いたのかい」

 はい、と実資は頷く。手抜かりのない彼のこと、確認は当然しているだろうとわかっての質問だった。


「なんでも、天災の後に病み付かれて筆も持てぬ状態だとか。ゆえに介が代行しているようで、此度、正式な委譲の処理も同時に進めるようです」

 それなら、そちらは蔵人の方に回されているな、と彼は考えた。


「これから蔵人所に向かうから、一緒にやっておくよ。なに、臨時の行政官が立つ場合には委譲した旨を補記しておけばよいのだよ。ただ、日付と姓名は正しく入れなければならないから、そちらの処理が先になるだろうね」


 義孝は実資から書状を受け取って、「ご苦労さま」と肩を、ぽん、と叩いた。

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