三 訪ぬる人をただにあらせよ(2)
しまった、つい義懐に対するようなつもりで。
一瞬、実資は子ども扱いに気分を害したように、ぴくと眉を動かしたけれども、きゅっと唇を引き結ぶと「いえ。仕事ですから」と答えた。
成長が人より遅かったせいで、彼は今頃になってぐいぐいと背を伸ばしている。日に日に華やかな
「よく気がついたね」
その、仕事ですから、と実資はさきほどと同じような返事をした。それが照れくささの反動であることに、義孝は気づいている。男子の多い家で育ったからだろうか、そうした仕草に彼は敏感であった。
彼らより十以上年上である
とはいえ、以来、実資も多少は学習したようで、年長者の顔を立てるよう努力しているらしい。おそらく、これも自分で蔵人所に行くこともできたのだろうが、先輩である義孝を通すべきだと考えたのだろう。そう察せられるからこそ、義孝も彼の気遣いを労ったのである。
ゆくゆくは政敵になるかもしれない相手だが、それでも、あまり争い合うような事態にはなりたくないな。
彼は、面倒な性格をしている実資が嫌いではない。
蔵人所では同僚たちが何かしら雑談で盛り上がっている気配だった。この忙しい時期に何を呑気な、と思いながらも中に入ると、義孝の顔を見て全員がはっと押し黙った。
「なんでしょう」
いえ、と間近の蔵人が答える。
「近衛の方はよいのですか」
業務の心配をしてもらうような仲ではないのだが、と訝しんだ義孝だったが、さきほどの実資の書状を思いだし、「そうそう。そのことです」と手続きの担当者を尋ねた。それを契機にみな忙しく仕事に没入し始めてしまい、奇妙な雰囲気については深く追求できずに彼もそのうち忘れてしまった。
日が落ちてから、円融帝の中宮・媓子の許へ使いを言いつけられた義孝は麗景殿に出向く。そこにはたまたま左衛門内侍も顔を出していた。
左衛門内侍は、母方の伯父である源重光の息女である。次兄・惟賢の妻だったが、その結婚生活は短く終わった。父・伊尹に先立って惟賢も病没していたからである。そのせいか、結婚したとはいっても惟賢と彼女とは恋人同士の初々しさを残していたようだ。伊尹と贈答した哀傷の和歌から滲む悲しみはあまりにも鋭利で、義孝たち家族の喪失感をさらに深めたものだった。
喪が明けると、彼女は重光の反対を押し切って出仕してしまった。義孝の姉で当時の今上帝・冷泉の女御だった懐子が懐妊したので、その付き添いとして無理に同行した。周囲の声に彼女は「もう夫を持つ悲しみは充分です」と言い捨て、それ以降、女官としての生活を楽しんでいる。大人しい女かと思っていたら、芯があって自立している。彼にとっては好ましい従姉のひとりだ。
「あら、これは
大げさにおどけて振る舞う従姉へ、彼はさも残念そうに答える。
「内侍殿が私の愛を受け容れてくださらないので、足も遠のくのですよ。それにどうやら内侍殿には、新しく
まあ、と彼女は笑った。
「ごめんなさい。あれは
「まったく……。想いは遂げられていないのに、貴女との仲だけは噂されるなど、とても損をした気分ですよ」
よく回るお口ですこと、と彼女は幼い日にしたように閉じた扇でとんとん、と自分の頬を叩いた。といっても御簾越しなので、義孝には素振りしかわからない。
出仕してからの従姉は、以前以上に魅力が増したようだ。深い教養を持ちながらもひけらかすことはなく、落ち着いた話し口で機知を見せる彼女は、今、宮中で最も人気のある女官だと言っていい。
その彼女の許へ義孝が通っていると人の口に上ったことがあったが、実は、藤少将と名乗っていたのは致平親王だった。
致平親王は先々代の村上帝の皇子で、円融帝の異母兄にあたる。先日、冗談半分らしいが、左衛門内侍に恋を仕掛けていたところを義孝だと周囲が誤解する一件があった。おかげで、身に覚えのない恋の噂が流れてしまったのである。義孝は女房たちの誘いには乗らず、いつも上手にかわしてしまう。主流から外れつつあるとはいっても、生え抜きの貴公子との恋を夢見る女も多い。やきもきしている人間、あるいは下衆な勘ぐりが好きな人間たちにとっては、やっと堅物の彼にも艶聞が生じた、とちょうどよい話のねたにされたのだった
そんな彼女はは堀河中宮とも呼ばれる女皇子と気が合うらしく、春宮側と兼通側の仲立ちをするようにしばしば麗景殿に現れていた。 兼通の長女・女皇子は誰が相手であっても優しく丁寧な人柄で接する女人だったので、ともすればバラバラになりがちな兼通や兼家ら九条の親族をまとめるには最適な人物といえた。「父に似ない心映えの良さ」と定評があるのも頷ける。
しばし、いとこ同士の気安い会話を続けた彼らだったが、「お忙しいのではなくて」と左衛門内侍に促されて、彼は用事の終わった麗景殿を後にすることにした。
「そうそう。修理大夫殿とのこと、お気を落とされないで。女郎花は他の方にも愛でられる花なのですもの」
戻る寸前、左衛門内侍は彼にそう投げかけた。
そのとき、義孝の遅い帰りに痺れを切らして彼を呼びに来た蔵人がいたので、深く考えもせずに、ええ、お気遣いをどうも、と答えて蔵人所に足を向けた。が、深夜になって仮眠を取ろうと身体を横たえると、鮮やかに彼女の言葉が甦ってきた。
修理大夫殿のこととは?
彼の周囲に訃報などはないし、従姉である彼女が言うのなら、自分と由子のことだろう。それにしては話題にするのが遅すぎる。最近は何の進展も後退もない。
それに女郎花というのも気に掛かった。
和歌で言うなら単に美しい女性のことだけれども、由子の童名である、ちめ、とは女郎花の古い呼び名だ。
他の方にも……。
まさか。
彼は不安を覚えた。
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