三 訪ぬる人をただにあらせよ(3)
翌日になって周囲を観察してみると、これまで気づかないのは神業のような偶然だったのだと自身でも思った。そうと気をつけていれば、すぐに悟ったはずだ。蔵人たちも、よくもまあ隠し通してくれたものである。
仕事に忙殺されて、周囲の風聞に気を配る余裕もなかった。それもこれも早く一角の人物になって彼女を迎えたいと願えばこそなのだから、皮肉な話でもあった。
挙賢なら知らぬはずはあるまいと彼は兄に確かめて、まことしやかな噂の正体を掴んだ。
由子が、結婚する――。
いかにもありそうことなのに、なぜ、これまで心配すらしなかったのだろう。自分の間抜けさ加減を嗤うしかなかった。
惟正が義孝に厳しい拒絶をしたのは、由子が一人娘だったからである。もし、他に多くの姉妹がいたなら、ひとりくらい伊尹の四男にくれてやっても問題はなかっただろう。彼女もとっくに適齢期だ。惟正とは親しい間柄だった伊尹の薨去を理由に慶事を控えていたのだろうが、一年の喪は明けている。縁談の頃合いとしては、ちょうどいい。そうしない理由はない。
彼は、どこかでまだ惟正が自分に配慮してくれるのではないかと期待していた……。
当て擦りのひとつでも言ってやりたいくらいだが、残念ながら、相撲節会直前で悠長なことをしている暇がない。とはいえ、のんびり構えていたら由子は結婚させられてしまう。もう彼には時間がないのだ。
相手は、小野宮の実資だとも聞いた。
なぜ、と惟正を責めつつも、やはり、という気持ちもあった。婿としては妥当である。いや、彼女のためにとっては良縁とすら言える。
だが、義孝は二重に裏切られたようにも感じた。それ以来、実資に対して自然に振る舞うことができなくなった。実資に咎はない。わかっている。急に距離を取り始めた義孝に、感情を覆い隠すのが苦手な彼はただただ戸惑っている。つまり、彼はふたりのことを知らないのだ。まだ年若いこともあって、それほど耳聡くはないのだろう。
これは八つ当たりだ。自覚しているだけに、自分の大人げない対応が嫌で堪らない。けれど、実資と由子がと考えるだけで、とても平静ではいられなかった。
そうやって悶々としている義孝の許に、惟正から今年初めての茄子と瓜が届いた。明後日には節会が開かれるという忙しない日々ではあったが、彼は折よく桃園に在宅中だった。瓜は義孝の好物でもある。そのことを覚えていて、惟正は新春以降激務をこなす彼を慰労する気持ちでしてくれたのだろう。
心遣いは憎らしくもある。
彼はさっそく筆を取った。
―― 御薗守答えだにせよ月たたば かのこともなりぬべしとか
どう返してくるのか見物だ、と彼は半ば自棄になって文を送った。一言もなしに縁談を進める……。もちろん、父親が許可したのだから横槍を入れる権利はない。けれども、これまでの付き合いからしてあんまりなやりようだと彼は憤っていた。
―― 瓜を送ってくださった果樹園の管理人よ、教えて欲しい。来月になれば、結婚の儀が成立するという噂は本当ですか。
惟正が初物を送ったのは、本当に親切心からだったのだが、お礼のはずの文を開いて、ついに知られたか、と息を呑んだ。娘をいつまでも独り身にしておくことはできない。けれど、義孝が聞けば……。彼も逡巡はした。伊尹の四十九日明け、これからも兄と思ってくれよと力づけたのは、他ならない自分なのに。
卑怯者と謗ってくれて構わない、と彼は返事をした。
―― 何事もなるとはなしにに
受け取った義孝は、文を握りしめ差し上げ……。だが、叩きつけることはしなかった。
―― 実もない瓜の蔓が伸びるように、事実でない話ばかりが広まっています。妙な話です。
あくまで白を切り通そうというのだろうか。それとも、自分と由子の間は未のなることのない、無益に想いのみが絡まるものだったと言いたいのだろうか。
彼は、惟正が好きだ。今だって、兄とも思っている。向こうも、それは同じだろう。
それでも、私では駄目なのだ。彼が婿として欲しい男は、自分ではないのだ。
変えようのない事実が押し寄せる。身内であっても、友人であっても、判断を間違うことはない。冷たい一線を引けるかどうか。彼の住む世界では、それができる者を大人と呼ぶのだろう。
―― あやもあれあやもなくまれかの瓜の数ならぬみようやは世の中
和歌を送って遺憾の意を示したところで決定を覆すことはないだろう。それでも、彼は惟正を詰らずにいられなかった。子どもの癇癪のようだ。わかっていて、止めることができない。
恋した女を手に入れたい。契った約束を叶えたい。
自分は贅沢者なのだろうか、と彼は自問した。他に望むものなどないというのに。
―― 変だろうがそうでなかろうが、要は小さ過ぎて目に止まらない瓜なのではありませんか、この私のように。この世には、なんてつらいことばかりなのか!
次には、返しはなかった。
惟正の和歌から考えて、結婚は八月だろうと推測された。ならば、
許しを得られぬならば、攫うまでだ。
道時を呼んで、妹の女房を通して山科に連絡をつけてくれるように頼む。義孝に事情を詳しく聞かされた道時も、「ここまで進んだ縁談ではもはや……」とは思った。けれど、いざ、意を決して忠告をしようすると、「頼む」と頭を下げた義孝の影が酷く薄く感じられて、承諾の言葉以外を選べなくなってしまった。
こんなに儚い気配をまとったお方だっただろうか、と寂しく感じる。
しかし、義孝たちふたりに同情的な者でも、決して賛同はするまい。案の定、寺への願掛けを口実で呼び出された妹も、真っ青になって道時を止めた。今は大鳥君と呼ばれている妹には相応しい相手とか家の釣り合いだとかはよくわからない。だが、家中の雰囲気として、中止にできるような段階ではないと思っていた。そこをどうにかして、と道時は無理に頼み込む。
「そんなこと……。兄上にも良くないことになりますよ」
彼女は眉を顰める。その通りだ。彼女の分別に理がある。大鳥君の懸念を前にして、道時はつい「義孝様が」と目を伏せた。
「もともと、お美しい方だったのだが、最近はこの世界から離れた方のような、どうにも落ち着かないご様子が気になって……」
繋ぎとめられるなら、何としてでも、と続けようとして彼は口を噤んだ。その意味がわからず首を傾げる妹に気づき、彼は「いや、いいんだ」と話を打ち消した。乳母子として長い時をともにした道時だから察知できる漠とした感覚である。それを他人に理解してもらおうなど、無理な話だ。
いつしか彼までもが何かに急き立てられていた。
それからは、時間が許せば毎晩のように義孝は密かに由子の住む二条の東の対に通い始めた。むろん、妻戸が開くことはない。
これが続けば、自然、人の口にも上るだろう。拒絶の連続によって義孝はいい笑い者になってしまう。男女の情から超越したように取り澄ました、あの後少将が、と。道時はそれを案じたけれど、彼は乳母子の心からの言葉にも「他にやりようがないだろう」と答えるだけで聞こうとしない。
彼は扉が開きさえすれば、由子は自分を受け入れてくれるはずと疑っていないのだった。
訪問も度重なるうちに、反対の立場を採る大鳥君も心を痛めて「せめてお返事はされても」と山科を通じて進言をしてはいる。肝心の由子が頑なで文ひとつ認めようとしないので、誰にもどうにもできないでいた。
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