三 訪ぬる人をただにあらせよ(4)
八月が迫ると、小さかった御薗の瓜も充分に成長する。まるで縁談への機運が熟すかのように。その変化は、迫る刻限を如実に彼に伝えていた。季節は変わろうとしているのだ。彼は園地から送られた瓜をひとつ取って、「彼女に」と言伝を頼む。
―― 立つことのもの憂かりつる瓜なれど のちや成らんと思ひぬるかな
籠に入った瓜を一目見たとき、贈り主を教えられることはなくとも添えられた消息が誰からのものなのか、彼女は即座にわかった。
ともに桃園にいた頃、健在だった伊尹はよく恵子女王に催馬楽の山城を謡いかけてふざけた。熱心な求婚の歌として知られる古謡を、改めて妻に送る理由はないのだが、そうやって彼は常に自分が妻をもっとも重んじていると、昔と変わらない恋心でいると訴えかけていた。
また、おかしなことを、と苦笑する恵子女王の膝元で、一緒に甘い水菓子を楽しんだものだった。
懐かしい想い出。
覚えているかい。そう彼は問いかけているのだ。同時に、山城の瓜つくりに自らを擬えてもいる。
あらゆる言葉で、彼女を揺り動かそうとしている。その想いが嬉しくも、せつなかった。
―― 外に立って待つのには飽きたけれど、この瓜が熟れるように私の恋も成るものと信じているよ。
忘れるはずがない。彼のことも。でも、それは言ってはいけないこと。知っているでしょうに。
由子には、彼の心は手に取るようにわかる。
物静かに見えて、本当はとても頑固で自分の強い人。愛されて、大事にされて育ったわがままな人。そこがとても好きだった……。
けれど、もう。
―― あだなりと名に立つ君は瓜生野の かかるつらさも慣らささりけり
冷たい女と、思ってくれていい。むしろ、そう受け取って欲しいと、彼女は筆を取って返事の和歌を書き記した。
昔から胸が締め付けられるような求愛として知られるこの歌は、最近では浮気な男ともいう意味でも使われる。由子の祖父が若い同僚をからかって送った和歌が最初だったというから、何か因縁めいた話だ。和歌に長けた義孝のことだから、当然その話も知っているだろう。
―― 誰もが浮気な人と知っているような貴方ですもの。畑の瓜のように待ち続けるつらさには、慣れていらっしゃらないのですね。私はもう充分に待ったのですよ。
これで私が醒めたのだと信じてくれたら。
けれども、義孝は由子の返事を含め、一切の制止を受け入れはしなかった。初めは、挙賢や道隆といった親しい身内も慎むよう警告していたのだが、彼の様子を目の当たりにして意見を引っ込めた。そうそう他人に止められるものではない。
時間が心を冷ましてくれるのを待つほかは。
その渦中にいる当事者には、そんな遙か未来の自分など及びもつかない。明日、できれば今日、恋人に会いたいという想いばかりに満たされている。
しかし、どうあっても彼女は会ってはくれない。彼はついに一計を巡らせた。
彼女の住む東の対では、今年、七月にする予定だった調度の虫干しを八月におこなうことになっている。そのことを、彼は何かのついでに聞き及んだ。
当日、見事な青天の下で調度を広げ、しっかりと風を通し終えると、女房たちは下男に命じて、すべて簀子に上げさせた。月は違っても、毎年繰り返されること。慣れた様子で手際よく調度を運び入れてしまい、夕刻にはすっかり片づけも終わった。
ところが、暮れなずみ始める時間になって、ひとつしまい忘れがあるようです、と下女が山科に告げたのだった。それもなかなかに見事な屏風だというので、露を含みでもしたら大変と、彼女は人を呼んで搬入を急がせた。すでに下がった者もいて人手が足りず、東の対付き以外の者まで呼んでどうにか早々に廂へとしまい込んだ。
「ご苦労様。もう充分です」
手伝いの者たちにそう解散を指示すると、女たちは散り散りに本来の持ち場へと去っていく。その中に、小袿を頭から被った女がいた。庭にいたのを、この手助けのために上がってきたらしい。
おまえももういいわ、と声を掛けようとして山科は息を呑んだ。人目がなくなったことを確かめてから、するりと小袿を脱いだ姿は、少将・義孝だったからだ。
夕暮れのなか女の衣を被っていると、男性とは見えない妖艶さだった。
「困ります! なんて無茶なことを!」
山科はつい声を上げてしまい、慌てて自分の口を塞いだ。以前にあった密通では、義孝は東の対の主に招き入れられたのである。その点において彼の言い訳は立つ。けれど、これでは……。
青くなる山科に。彼は言い訳はしなかった。しっと口に人差し指を当てて見せて、強引に姫君の部屋に進もうとする。この度ばかりはお許しくださいと、乳母は必死に義孝を押し留めた。縁談が進む身の上で、男を通わせたとあっては姫君はもちろん、お付きの者たちみなの名折れになってしまう。が、所詮、男の力には敵わない。
そこで、内から声がした。
「いいのよ、山科」
入っていただきなさい、と彼女は言う。それは、彼の知らない静かな声色だった。
やっと逢える喜びに、その静穏さの持つ意味を彼は敢えて無視した。一年振りになるだろうか。高鳴る胸を押さえつつ、由子の私室に足を踏み入れた義孝の目に最初に入ったのは、きちんと立てられた几帳という境界だった。
どうぞ、お座りください、と彼女は薄絹の向こうで勧めた。
「兄妹のように育った義孝様に、こうして衣越しでお話することをお許しくださいね。もうすぐ婿を取る身ですので……」
そんな……。腰を下ろしもせず、彼は唇を噛みしめた。
「では、君の意志だというのか……。この結婚は」
義孝にとっては、いささかほども考えなかったこと……。予期しない回答だった。
「承諾、という意味であるなら、そのように父上にお伝えしてあります。なかなかに機縁の巡り合わせが悪くて、未だ婚儀には及んでおりませんが」
「君とは……」
彼は言葉を逡巡した。どう言えば、彼女を揺らすことができるだろう。
「筒井筒の君とは、来世までもともにする仲だと信じている……。そう誓い合った朝を忘れたというのか」
義孝にしてはとても荒々しい語気だ。そのことが、彼女を呵む。この人は、毛ほども変わっていない。
「ご縁がありませんでしたね……」
そんな返答で諦められるなら、父から言われた結婚を受け容れたときにそうしている!
彼はついカッとなって一歩踏み出し、彼女が隠れている几帳の布を勢いよく払った。がたん、と几帳の台が動いた。このような荒々しい振る舞いを、彼女は嫌う。わかっていても、止められなかった。
「私を見て、そう言ってくれ」
しかし、そこに愛しい女を見出すことはなかった。早朝の湖のように澄んだ瞳をした女が彼を真っ直ぐに見つめている。彼の激情とは正反対の姿に、彼はたじろいだ。
一年前には無邪気なあどけなさを残していた少女は、もはや大人の物腰を身につけていた。
「義孝様には、どうぞ、おわかりくださいますよう……」
彼女は、すうっと頭を下げた。その他人行儀な振る舞いが、彼を苦しめる。近づこうとすれば、逃げていく。間を決して詰めさせない。彼女は決意しているからだ。
ほかならぬ、彼女自身が。
いやだ。
彼は祈りのように強くそう念じた。身体の内側から、焦がれるような激しい想いがり出る。
彼女を失うなんて、絶対にいやだ。
そんなことには、耐えられようはずがない。
これまでだって、耐えられてはいなかったのだ。
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