三 訪ぬる人をただにあらせよ(5)

 彼は救いを求めて、その袖に腕を伸ばした。


 触れたら。


 一縷の望みが彼を突き動かす。

 きっと触れ合えたなら、彼女は思い出してくれるはずなのだ。


 どれほどお互いが求め合ったのかを。自分たちが、どれほどかけがえのない相手であったのかを。

 しかし、彼女はゆっくりと袖を下ろして位置を変え、義孝の掌を退けた。


「そんなつれないことを、言わないでくれ……」

 諦めない彼は、さらに進んで彼女を両手で抱きしめた……。覚えのある香りが鼻腔をくすぐる。


 が、かつてとは違った。硬直した女の身体は彼を拒んでいる。由子は両手でそっと男の胸を押し戻した。


 それでも。

 そこまでされても、彼の心に宿る想いは煌々として衰えを知らない。


「君とはこの生の初め、桃園でともに過ごした……。どんなに道程が険しくとも、生涯の最後に一緒にいるのは、君だ。君の他に考えられない」

 幼い誓いが胸に甦る。彼女はつんと痛む目の奥から涙が溢れ出て来ないように、脇へ逃れて顔を伏せた。


「道理の通らないことをおっしゃらないで……。貴方にはきちんとした北の方がおられます」

 今は他のひとのことを口にしないで、と唇を求めたけれど、彼女は袖を上げて、彼をはね除ける。近づいてもするりと彼女は逃げていく。実体のない影を追うようだ。こじ開けられた逢瀬を夜の帳が覆い隠してくれる間、ずっと彼は彼女の心を開こうと説き続けた。


 しかし、どんなに言葉を尽くしても、彼女の気持ちはそよとも揺らぐことはなく、やがて夜明けがやって来た。日の出は無粋に男を追い払おうとする。


「夫婦としてのご縁は成らなくとも、いつか……。あるいは、貴方にはご嫡男がおられます。それぞれの道を一心に歩んでいれば、互いの子の父母として、別のご縁を結ぶ日が来るやもしれません……。だから」


 だから、この恋を断ち切って。彼女はみなまで口にしなかった。彼を見つめる黒曜石の瞳は、星合の夜に桃園で彼の心を射止めた少女そのままだ。なのに、浮かぶ願いはあの頃とは異なる。


 そうして欲しいと、君が望むのか。

 いいや。彼は首を振る。


「私は、諦めが悪いんだ……。知っていたかい」

 彼は力なく笑うと立ち上がり、「けれど、この朝は帰るとしよう……」と廂を窺った。


 乳を与えて育てた姫君がひたすらに気がかりで一晩中起きて周囲を見張っていた山科は、ほっとして彼を外へといざなう。姫の評判を落とさぬためにはすべてを秘密裏に、人に見られぬうちに帰さなければならない。


 彼女も孫廂まで出て、彼の背中を見送る。心残りのために帰り難い男は、のろのろと歩を進めた。彼女が引き止めてくれると信じたい恋慕が見えている。


 後ろ姿ですら、貴方は優美なのね、と彼女は虚しく終わった朝帰りを眺めている。


 もしかしたら目に収めるのは、これが最後。

 二度とこのような時を持つことはないでしょう……。妻として、などという我が儘はもう言わない。一晩中、貴方のお側にいられて本当に幸せだった。


 伝えられない想いを胸に、彼女は御簾の隙間から夏の朝に見入った。本当は言いたい。教えたい……。けれども、彼女は彼の激情を懼れた。声にしてしまえば、理を尽くして説得したとしても、彼の未練はいや増してしまう。


 だから、胸の中で、彼女は語りかけるしかない。


 私たちは筒井筒の恋人。


 初恋って成らないものなのだそうです。それでも、多分、私はまたとない果報者なのだと思います。貴方にこんなにも愛されて、その記憶を抱いて生きていけるのだから……。


 彼は幾度も振り返る、幾度も幾度も。


 貴方を忘れません。

 ずっと……。


 彼が遠ざかる。遂には振り返るのをやめ、いよいよ二条第から去っていこうとしていた。彼女はぎゅっと御簾の竹ひごを握り締める。


 ……。


「うそよ」


 ぽたぽたと大粒の雫が落ちて、彼女の夏の小袿をさらに鮮やかに変える。時ならぬ雨は、止めどなく彼女の袖を染めていく。


 そんなの嘘よ。


 彼女は嗚咽した。

 まだこんなにも想ってる。諦めるなんてできない……。


 みなが思い切れという。みなが反対をする。そう理性から判断することは簡単だ。彼女とてよく理解している。けれども、誰も諦め方を教えてはくれない。想いの消し方を、伝えてはくれない。


 この苦しみが、やがてなくなることなんてあるの?


 時が経てばと人はいう。幼い日から十年を越えて燃え続けていた心に、時間という薬が効くと何故言い切れるのだろう。


 ああ、お願い。

 彼の愛した黒い双眸はしとどに濡れ、懇願の眼差しで彼の背を追う。


 振り返って、もう一度。


 もう一度だけ、振り返って。そうしたら……。


 父も兄弟も何もかも関係ない、と彼女は思った。最初から、そうだったのだ。


 すべてを捨てて貴方の許に駆けて行く。貴方のためだけの女になる。必ずそうする……。だから、お願い。


 振り向いて私を見て……!


 ふと視線を感じ、東の対が車宿りの陰に入る前に、彼は顔を上げて背後の孫廂を見やった。風はないが、僅かに御簾が揺れている。しかし、そこに人影はなかった。


「由子……?」

 呼んで届くほどの距離ではないし、彼女が応えるわけもないが……。けれど、彼はそうせずにいられなかった。


「いるはずも、ないか……」

 由子は……。

 逃れるように、格子の影でひとりうずくまっていた。


 この期に及んでも、私という女は……。


 浅ましい、と彼女は自分を呪った。情けない。恥ずかしい……。真実は、彼に愛されたくて、彼が欲しくてならないのだ。ぎりぎりまで抗おうとしている自身の心に、彼女は震えた。


 ああ、それなのに。

 父親には素知らぬ顔で、もう終わったことなどと言った。嘘つきはどちらなのだろう。本当に、こんな私が。


「他の男のものになれるの……?」

 彼女の頬を流れる涙は甘く、優しく慰めてくれるけれど、その先にある明日は教えてくれない。


―― 花薄結びおきたる袂ゆえ露も心の解けず見えつる


 まるで後朝文のように届いた和歌には、そうであろうと彼女が努力したままの女がいた。冷たく、心を許さない恋人……。つまり、彼女はうまくやったのだ。本心はどうあれ、彼はそうと捉えたのだ。


―― 花薄に露が結ぶように、私を想ってくれと君の袂を強く結び過ぎたのだろうか。君の心は、解けてはくれなかったね。


 そうよ。それでいいの。

 彼女は返しを送った。


―― ほの結ぶ野草のくさ隠れの花薄 解けてや秋も過ぎんとすらん


 受け取った義孝は、由子の言葉を思い出す。あの夜の彼女は、縁がなかった、とそう告げたのだった。

 自分ひとりが想っていたとしても虚しいばかりだ。頭のどこかでは、そうやって冷静にこの恋を見下ろしているのに。


―― 貴方と結んだ契りは、すぐ風に隠れる野草のように儚いもの。すでに縁も解けて秋も過ぎ、貴方は私を忘れることでしょう。


 彼女の決意は固く、次の逢瀬はなかった。彼女は決して彼に会おうとはせず、やがて婚儀が近づく。義孝は無駄だろうと知りつつも、その前日に女郎花につけて和歌を贈ることにした。

 かつて、ちめの花咲く野を彼らはふたりして歩いたのだ。そのことを忘れないで欲しい、と。縁が切れた、とは彼は信じなかった。信じたくなかった。


―― 露ふかきものにそありける女郎花 訪ぬる人をただにあらせよ


 どんなに手ひどく突き放しても貴方はそうして想ってくれるのね。

 傲慢だろうか。それとも残酷だろうか。彼女は嬉しかった。童名と諱、両方で彼女を呼んだ男は、彼ひとり。それは、由子が一生大切に仕舞っておく秘密でもあった。


―― たくさんの露を含んだ女郎花のような君。誘われて訪ねていく私までも、涙にくれさせないでくれ。


 もう、返事はしなかった。

 由子は文とともに女郎花を懐紙に挟んで、文箱の底に置くと、その上に古い消息を重ね、さらに箱そのものも長櫃の奥にしまい込んだ。彼女の胸深く沈ませた想いと同じように。


 暗く見つからない場所へと。

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