三 訪ぬる人をただにあらせよ(6)
彼女は、夫となる実資のことをよく知らない。父が選んだのだから、よい殿方なのだろうと漠然と思う程度である。縁談を持ちかけた最初のうちに、惟正は詳しく教えようとしたのだが、彼女は「父上がお決めになったほどのお方ですから」と聞こうとはしなかった。
事前に人となりとわかって何になろう。安心するのか、それとも期待するのか。諦めるためなのか。彼女には、どれも同じことだった。
義孝たち九条流と双璧を為す藤原氏北家の名門、小野宮流の嫡子・実資。彼は養父であり、実の祖父である実頼から莫大な資産と豊富な有職故実の知識を受け継いだ。しかも、彼はまだ妻をひとりも持たず、性格は至って生真面目で浮名ひとつもない。結婚後の不安も少ないとあって、受領上がりの惟正からすれば破格の好条件である。
惟正は娘にとって望める最高の貴公子だと考えているし、客観的に見てもそれは事実だった。父のとりなす言葉には、義孝を袖にしてまでの婿なのだから、という引き裂いた恋人たちへの贖罪の気持ちも含まれていて、それも娘には重荷だ。
やがて、結婚の第一夜が訪れた。
初めて相対した実資は、まだ子どもの気配を纏っている青年だった。それは細い手足のせいだ、と彼女も気づく。伸び始めた四肢に肉が追いついていないのだ。彼はとても緊張していて、その硬い表情からは決して
よい方なのだわ。
彼女は、そう感じた。嘘偽りのない、素朴な気質が伝わってくる。きっとこの人は、妻に心から向き合える、正直な人なのだろう。
父親がどれほど心を砕いてくれたのかもわかった。素晴らしい人と娶せてくれたのだ。
ふっと、終わったのだ、と彼女は知った。
「幾久しく、可愛がってくださいませ」
茵の上で頭を下げると、自然とそんな台詞がすらすらと出てきた。けれど、その声はどこか空々しくて、自分の言葉ではないかの如く変にふわふわとして宙に浮いて聞こえた。
これは私が言ったことなの?
新しい夫は初めて聞く彼女の声に少し驚いて、それからはにかんで、はい、と頷いた。
「大切に……、いたします」
恋を失って、別の男の妻となっても、世界は終わりはしなかった――。
地が大きく震えるわけでなし、凶星が夜天をよぎることもない。時は淡々と流れていく。ほっとしている山科の様子に接する都度、事態は好転したように彼女も思う。きちんとした貴公子をやっと姫君の婿として迎えることができたのだから、みながみな安堵しているのだ。その心が空気にも染み渡り、穏やかで優しい色合いに満ちていく。
父を、兄弟を、身近な者たちを捨ててまで掴む恋など、貫き通せるものではない。今は、そう受け止められる彼女がいた。
八月の末に婚儀が成ったために、秋はもうそこまでやって来ている。どうにか狂おしい暑さが和らいだと感じる頃、その報せはふいにもたらされた。
昼頃、宮中に出仕していた家人のひとりが二条第に慌ただしくやって来る。落ち着きなく惟正を探す姿は、どう見てもただごとではない。騒ぎを聞きつけて、寝殿の奥向きにいた女房たちも、何事なのかと顔を見合わせる。しかし、惟正は不在でここにはいない。父上は出仕していたのではないのかしら。訝しんだ彼女は、山科に命じて事情を聞かせにやった。
その家人は姫君の乳母にあらかた説明をし終わると、「では、私は別な心当たりに行ってみるので」と慌てて邸宅を後にした。
「まあ……。忙しないこと。なんでございましょう」
孫廂まで出て御簾越しに男を見送ってから、大鳥君は内に戻って呆れ返る。少女は女主人の結婚に刺激を受けたのか、ここのところ、ぐっと女らしさを増している。
「どうせ、小者が大げさに騒ぎ立てているのでしょうけれど」
そうね、と由子は当たり障りなく相槌を打つ。だが、続いて御簾を潜った山科の表情はいつになく深刻だった。姫君、と一度口を開けてためらい、意を決したように声を発した。
「姫様、弔事でございます。今朝ほど、宮中で挙賢様がお倒れになって、お亡くなりになったとのこと」
え? 彼女は首を傾げた。挙賢が病み付いているなど、聞いたこともない。昔から病気とは縁のない丈夫な人だ。
「それは……。いくら何でも聞き違えではないの? 朝にお加減を悪くしてなんて……。まだ昼すぎよ?」
「私もそう存じ、念を押したのですが……」
報を伝えた家人の言によると、間違いはないのだそうだ。
「まあ……。そんな、怖ろしい……。一体……」
そう呟いた大鳥君は、指先が白くなるほどに袖をしっかと握りしめていた。無理もない、彼女の異母兄たちは挙賢に近しい。
「この夏より、
それにしても早い。彼女は息を呑んだ。挙賢は、いつから罹っていたというのだろう。
「いやだわ……。大殿と、殿はご無事なのでしょうか……」
同じ内裏で働く彼らである。挙賢が病んでいたのなら、他に罹病した者がいても不思議ではない。そう口先で心配しながらも、彼女は別の人を思っていた。
御仏への信心深い彼のこと、滅多なことはないだろうけれど……。そう言い聞かせた。
別なところで誰ぞが倒れただの、それは誤まりだっただの、噂に近いあやふやな情報が切れ切れに飛び込んでくる。使いをやるも、なかなか帰っても来ず、もやもやとして落ち着かない気持ちのまま、彼女たちは徒に時間を過ごした。
依然、惟正からの連絡はない。それどころではないのだろう。死者が出れば穢も発生してしまうし、亡くなったのが蔵人頭の挙賢ともなれば混乱は免れない。同じ任にある父が我が家を後回しに動いているのは当然だ。第一、他にも病者が出ているかもしれない。どのくらいの広まりを見せているのか、邸宅に引きこもる彼女たちには把握しようもないこと。彼女は気を揉みながらも、報せを待ちましょう、と周囲に言い聞かせた。
夜半、やっと帰宅した惟正は足音も荒く、由子の居室までやってきた。
「安心しなさい。婿殿はご無事だ」
まずは、そう口にした。声もしっかりしていて、父にも異変はないようだと、彼女は胸を撫で下ろす。
「この度のことで、小野宮で場が持たれているそうだから、今夜はいらっしゃらないだろう」
それから苦み走った顔で告げる。
「ただ、義孝殿が、倒れられた」
彼女は眉を顰める。ひどい誤報だ。
「それは兄君でございましょう。昼頃、そのようにお聞きしております」
いいや、と惟正は首を振った。
「挙賢殿は朝に倒れられて、すぐに亡くなられた。義孝殿は夕に具合を悪くされて……」
今、臥せっている。おそらく翌朝まではもたぬだろう、と彼は継いだ。由子はふらふらと立ち上がり、御簾に寄りかかるようにして父に問い質す。
「でも、必ずしも兄君と同じ病とは……。近頃、根を詰めてお勤めなさっているとか……。少し体調を崩されたのでは……? とても、無理をなさる方です……」
あれこれとあげてみる言葉は震えて掠れ、最後は音をなさなかった。どれほどにつらかろうと、彼女には教えなければならない。惟正は娘に言い切った。
「医師が診た。疱瘡だ」
目の前が一瞬で暗闇になり変わる。
世の中から、何もかもの色も音も、熱をも奪われる。まだ何かを言おうとした彼女の世界はぐらりと回転し、大きな響きとともに床板の上にうち臥した。
……。私は、なんて愚かだったのだろう。
微かに乳母や父の騒ぐ声が認められた。それも次第に小さくなる。彼女の意識は、そこで途切れた。
私が、あの人を追い込んだのだ――。
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