三 訪ぬる人をただにあらせよ(7)

 そう諒解した。


 遠い先には子の父と母として? そんな戯言を口にした自分は、どれほど馬鹿な女だったことだろうか。なぜ人は誰も、今このときと定めて恋を掴み取ろうとするのか、彼女はようやくわかった。


 明日は、来ない。


 いつかの明日、なんて日は来ないのだ。

 人の命は儚い。彼の詠んだ通りにあっけなく、散って消え去る季節の花。あるのは、終わりのない、今の連続。


 それが、この日行過ぎて行って戻りはしない。

 もう、生きていても意味などは、ない……。


 全身からあらゆる力が抜け出ていくようだった。


 それからは、夢かうつつか。

 何度も彼女は朦朧としたままに目を覚ました。自分が乳母の看病を受けていることは察した。稀に枕元で、「まさか姫も」などと父が案じる言葉も届く。けれど、それが精一杯で、また混沌に落ちていった。


 医師の見立てでは疱瘡ではない、ということで、惟正はひとまずほっとしたのだが、こうも言われていた。

「夏の暑さが残っておられたようです。生来、あまりお強い質ではございませんね」

「そんなはずは……。病ひとつしたことはないが」

 解せないながらも医師は頷いた。


「では、よほどのご幸運がおありになったのでしょう」

 惟正の脳裏に老尼の忠告がよぎる。が、医師は時間さえあれば、元のようにおなりでしょう、と請け合ったので、その記憶はすぐに追い出してしまった。


 時は巡りゆき、風も日ごとに涼しくなる。

 月が変わる前には彼女も回復し、帳台から出るまでには至らないものの、起きていられる時間は長くなった。

 しかし、心はどこかに飛び去ってしまっている。事情を知る山科たちは同情していたけれど、だからといってどうにかできるものでもなかった。


「姫君、お加減は」

 彼女が休んでいると、実資が訪れて、茵の側に腰を下ろした。夫はまだ由子のことを、そのように呼んでいる。

「殿……」

 身体を起こそうとした彼女は、一度夫に制止されたのだが、「いえ、もう随分とよいのです」と答えてから彼の手を借りて座り直した。


「貴女がお好きだと聞いたので」

 彼は帳の外にいる女房に高杯たかつきを持ってこさせた。


「瓜をと、手を尽くして探させたのですが、あいにく旬を過ぎてしまっていて……。別の水菓子なのですが」

 そこには、小さく切られた梨の果実があった。


「似てはおりませんが、これならお口にできるのではと思い」

 瓜が好きなのではない。そうではない。幼い日々、ともに喉を潤した……。

 彼女は彼を見上げた。優しい面差しは、どこか寂しさを帯びている。


「なかなか見舞いに来られなくて申し訳ありません。少将殿がおふたりも、しかもおひとりは蔵人頭という方が亡くなられたので、宮中も大変な状態なのです」

 この人はあの方と同僚だったのだ。改めて彼女は思い出した。

「その……、貴女もおつらいでしょう。舅殿から兄妹のようにお育ちだとお聞きしております。私にとっても、その、何というか、とても良い方たちでした」


 実資が気をつけて話していることが、よく伝わってきた。本当に隠し事のできない人なのだ。それに比べて私は……。

 彼女の胸は痛んだ。


「そういえばですね」

 彼はことさら明るくなるよう努めて続けた。

「昨夜、夢を見ました。私は明るい野にいて、美しい花の影に誰かおられると思ったら、藤少将よしたか殿だったのです……。どうなさったのです、どこにおいでですと、お尋ねしたのですが、生前は、親しく話をさせていただいたご縁でしょうか。その、詩をくださって」


 詩?

 彼女は小首を傾げた。


 確かに、義孝は笛も書も上手いし、詩、すなわち漢詩の作文さくもんも人より秀でている。けれど、夢で再会するならば、きっと和歌を詠むことだろう。一番得意なのは、和歌だったのだから。


「昔は契りき蓬莱宮の中の月、今は遊ぶ極楽界のうちの風に、と……」

 彼女はその詩を反芻した。


 かつては蓬莱宮のごとき宮中で語り合いましたね。今、私は極楽の園で心地よい風に吹かれているのですよ……。


「きっと、安らかにしておられると思います」

 彼女は、じっと夫を見つめた。


 より漢詩が得意なのは、義孝ではない。よく漢籍に通じているのは……。


「貴女も、そう心配なさらないで……。私がおります」

 彼女の瞳からぽろぽろと熱い涙があふれ出た。


 知っているのだ。何もかも。

 自分の愚かさを呪ったばかりだったというのに、また同じことを繰り返そうとした。彼女は、過ちを犯し、選ぶべきものを違え、恋を失い、恋人を無くした。


 そして、今もまた。

「本当に、お優しいのですね」

 泣き出した妻をどう慰めていいのかわらず焦る実資に、彼女は微笑んだ。


 生きよう……。この人のために。

 この、優しい人のため……。彼女は、その人生を選びとったのだ、理由はどうであろうと。結果を知り得た上で決定を下せる人などいない。誰もがその場その場で考え、苦悩し、選択肢の中からひとつを採る。完璧な判断など存在しない。それでも、その先にある未来には、どんな人にも責任がある。

 彼女は、実資と生きることを選んだのだ。


 少女の衣を脱ぎ去って、由子はやっと女へと生まれ変わった気がした。

「心が、晴れやかになったようでございます……。せっかく、殿がお持ちくださった水菓子、少しばかりいただきたいと思いますが」


 御前で口にするのははしたないでしょうか、と彼女ははにかんだ。いいえ、と彼は首を振る。

「病後のことです。夫が妻を労るのに、何の障りがあるでしょうか」

 彼は高杯を取り、一切れとって彼女に差し出した。


「遠慮しないで。さあ」

 実資が含ませてくれた梨の実は瑞々しさに満ちて甘く、まるで蜜を舌に乗せているかのようだった。


「こんなにも美味しいものなのですね」


 嬉しそうな由子の姿に、彼も胸のつかえが取れたように、安心した顔を見せた。

 きっと、この人とともに歩んでいこう……。


 けれども、彼女がそう思うごとに、嘲笑うようにして身体のどこかで冷気が走る。その正体を、彼女は察していた。曖昧模糊とした怯えがもやもやと沸き立つ。それは、未だ形を為さないものではあったけれど、予感はぬぐい去れずにいた。


 私の中で、何かが凍りついてしまったのね……。不二の山裾にあるという、永遠に溶けない氷穴のように。

 多分、幼い彼女とともに彼が心の一部を持って逝ってしまったのだろう。そう彼女は感じた。


 だから、もう。


 私の空に星合は、ない。

 手元に張った水鏡。新たに七月を迎える都度、そこに捉えた星影で本物の星を偲ぶことになるだろう。


 無邪気な少女だった頃に見上げた、天を飾る星合を見る日は、もう来ないのだ。

 のちに……。


 義孝の遺児は舅である源保光が養子とし、これまでと変わらずに桃園で育てられることになった。惟正は亡き伊尹との縁を切ることなく、縁戚のひとりとして少年に接し、惟章、遠資と名の変わった由子の兄弟たちも折を見ては交流を持った。


 しかし、由子自身は桃園に関わることなく、実資室として二条第で過ごした。実資は蔵人頭、右中将と順調に出世し、即位した義孝の甥・花山天皇にも重んぜられることになった。同じ時期に蔵人頭として任じられたのは、藤原義懐。ひとり残された伊尹と恵子女王の息子であり、義孝の可愛がった弟であったのは、奇妙な縁といえた。


 ふたりは仲睦まじく暮らしていたけれど、実資と由子には長らく子ができなかった。実資は強く我が子を望んでおり、そのためにたびたび石清水八幡宮に参詣したほどだったが、効果はようとして顕れなかった。

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