三 訪ぬる人をただにあらせよ(8)
夫の今後を考える上で、子息・子女の数が重要であることは言うまでもない。由子はひどく気に病んで余所にも妻を持つよう勧めたのだが、これには彼は同意せず、決まった女を他に作ろうとしなかった。
いっそのこと離縁していただいても、とまで言い張る彼女を、実資は少しも取り合わず、
「なに、小野宮は少産の家系でね。その代わりに、優れた才が集まるのだ……。それに」
彼は屈託なく微笑む。妻に限って見せる表情だ。
「私は、君に似た娘が欲しいのだよ」
彼女が直感したままに、十年が過ぎても彼の愛に翳りはなかった。そんな夫のためにもどうしても、と彼女も願い続けて十一年め、待望の懐妊が叶った。当然のことながら、実資の喜びは計り知れなかった。
翌年四月、女の赤ん坊が生まれる。乳母となったのは、今は元服して源遠資と名乗る弟・小君の妻だった。赤子は生まれたときから弱々しく、実資は心配で眠れない夜を過ごすことも少なくなかったのだが、乳母の与えた乳がよかったのか、日を重ねるにつれて徐々に体調は快方に向かっていた。
反対に、床を離れなくなったのは由子の方だった。娘にすべてを与えてしまったかのように、出産以来ゆっくりと病み衰えて行き、どんな祈祷も薬も効力を発さないでいた。
そうなってからは、彼女はよく幼い日々を思い起こすようになった。この十年、封じてきた記憶の数々は、年を経てもなお輝きに満ちている。それとともに、父がかつて話した古寺の老尼のことも甦る。
惟正に連れられて桃園にやってきた日、由子はまだ少年のように半尻姿のままだった。伊尹の子どもたちはみな、女の子がそんな格好はおかしいと笑ったのだけれど、後日、彼女は「どうしてなの」と聞いてきた義孝だけには老尼のことを教えた。
「ふうん」
当時から考え深そうな瞳で、彼は頷いた。
「それなら安心だね。桃園にはまだまだ桃の木がたくさんあるから、邪を祓ってくれるよ」
古来より、桃には破邪の霊力があると言われていた。でも、と由子は俯いて答える。
「私はいつまでも桃園にいられるわけじゃないもの」
ああ、と氷解したように彼は笑い、少女の手を取った。
「それなら大丈夫。僕たちはずっと一緒だからね。僕が千女君を守ってあげる……」
そう彼が約束してくれて、京に来てから初めて彼女は本心から笑うことができたのだった。
その利き目が、ついに切れたのだわ、と彼女は思った。段々に、禍々しいものを遠ざける力が弱くなっているように感じた。うとうとと浅い眠りに入ると、近くで覚えない者たちが盛んに喋っている声がする。目を開けても誰もいない。日を追って、その声は次第にはっきりとしていく。彼方と此方が境を失っているかのようだった。
彼女は、自分の五体がじわじわと侵されていくのを知った。けれど、それに抗う力は残されていない。すべて娘に与えてしまったのだろう。
それでいい、と彼女は思った。
娘の誕生から一年ほどの月日が過ぎる。
ある夜、浅い眠りから覚めると、夫が祈るようにして彼女の手を取り、そうっとさすっているのに気づいた。消えゆく生命を呼び戻そうとするかのように。彼の掌は温かい。逆に彼女の肌は水のように冷えている。唐突に、彼女は悟った。
触れていても、ふたりの間には命の境目がある。
その時が、すぐそこに来ていた。
「殿……、実資様」
身を起こす力は、ない。
「私は、どうやらこれまでのようでございます」
はっと、彼は目を見開いて、「気弱なことを申すな」ときっぱり否定したが、いいえ、と彼女は言を紡ぐ。
「自分のことはわかります……。お傍を離れること、どうぞお許しくださいませ」
「駄目だ!」
大きく答えてしまい、彼は慌てて声を落とした。
「子はどうする……。生まれたばかりで母を喪うのか……。まだいとけない嬰児なのだよ」
それを指摘されると、彼女も身を切られるようにつらい。この世に生み落としたばかりの我が子を彼女も愛している。
「貴方がおりますもの……。愛情の、とても深くて広い立派な父上が……」
それ以上に君を失いたくないのだ、と彼は顔を歪める。
ああ。
彼女はため息をつく。
どんなにか私は幸せだったことだろう。この十年余り……。けれど、何事にも終わりはあるのだ。
「貴方には、見つかります。長い生をともに歩んでくれる女人が。必ず現れると、私にはわかるのです」
先程の眠りの中で、彼女は人間には感知できぬ事象の欠片を得た、そんな気がした。先々の不安はない。大丈夫だという確信があった。
時間の流れは、彼女のなかで停滞して、混沌と絡み合っている。そんなふうに彼女の魂は、今、現より乖離していた。
「そんな者は要らない……。駄目だ……、由子」
引き止めるも虚しく、妻はすうっと意識をなくした。彼は青くなって息を確かめるけれども、まだ微かに呼吸はしているのだった。それも、もはやごく浅い。
頼む。
彼は初めて懇願した。
「妻を連れて行かないでくれ」
貴方には何の恨みもない。往時には親しく交わりもした……。無駄とわかっていても、呼びかけずにはいられない。
彼女が必要だった。誰よりも大切にして生きてきた。子も生まれ、やっとこれから夫と妻として、父と母として、同じひとつの家を造っていけるのだと、そう信じていたのに。
「義孝殿」
彼はひとり慟哭する。
「妻を、奪わないでくれ……」
しかし、もはや彼女は瞼を開くことはなく、五月のある日、静かにこの世を去った。
その後のことは、彼の記した『小右記』に詳しい。残念ながら嫡妻・源惟正の娘が没した寛和二年の記事を欠いているため、その悲しみを知ることはできないが、彼は長年にわたって亡妻の法要を営んだ。
彼は妻の忘れ形見となった娘をこよなく愛した。しかし、娘は六歳の年、病によって成人することなく亡くなっている。当時の慣例により遺骸を山中に捨てたものの、思い切れない実資は翌日娘を求めて訪れた。日記に記された強い悲哀は、読む人の心を打つ。
しばらく正式な妻をもたなかった実資だったが、八年ほど経って退位した花山天皇の女御だった・
そうして得た妻も五年も経たずに亡くなったため、「二度と結婚はしない」と断言するほど、実資は嘆いたという。道信の生前、彼の想いを知った実資は気に病み、従弟の藤原公任に相談をしている。二度もまでも他人の恋を奪う形になったのであれば、彼の困惑にも頷けるものがあるだろう。
時期は不明だが、悲しみを癒す意味もあってか、彼は婉子女王の乳母子と通じるようになった。入内から再婚先まで付き従い、女王の女房として支え続けた忠実な女性である。二十歳ほども年下の、この女性は婉子女王の没後十年余ほどして、女子を生んだ。彼女はと結婚したというわけではなかったけれど、実資に生涯連れ添って嫡妻として扱われている。その熱愛ぶりは『栄花物語』にも描かれ、物語中でも「幸い人」と呼ばれる女性のひとりである。賢妻とも評された彼女は、実資を看取ったようだ。
実資の一人娘は無事成長し、小野宮の財産すべてを相続した。父が「かぐや姫」と呼んで目に入れても痛くないほど可愛がった少女の名は、千古という。
「千古」とは太古、あるいは永遠を指す。千年の時を経てなお、娘を想う父の心を伝えている。
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