エピローグ

 遙かのどこかに喧噪がある。衣を捌いてゆったりと歩みを進める彼女には、そのざわめきは人ごとのよう。けれど、それが葬送の嘆きだということには気づいていた。

 誰を弔っているのかも。

 それでも、彼女には、ただ音として響くのみ。

 痛みも、願いも、恋慕も、執着も。

 すべて置いて別れを告げた。

 後に残るのは、果たされなかった未練だけ。しかし、それも緩やかに薄れてゆこうとしている。

 彼女は悟った。さわさわと耳をくすぐるのは、どうやら衣擦れではないらしい。

 それはせせらぎであった。

 あちらの世界へ到達するには、境目にある川を越えねばならぬという。ならば、水音は当たり前の風物だろう。

 その流れに沿うようにして、澄み切った笛の楽が彼女の袂に至った。

 懐かしい。

 聞き覚えのある、よく親しんだ調べだった。

 まもなく、辺りにかかっていた靄が晴れ、川縁の岩に涼しげな風情で男がひとり、腰掛けているのが見えた。その手には龍笛がある。

 彼は笛を離し、顔を上げて「やあ」と彼女に挨拶した。

「待っていたよ」

 おかしくはない。ここが、初めて通じた男に背負われて越えるという葬頭河そうずかならば、女を待つ者がいるのは。

「それはご親切ですこと」

「君は、私がいないと向こうにいけないだろうからね」

 まあ、と彼女は呆れた様子で窘める。

「そういう女人を、いったい何人お待ちなのかしら」

 彼は、ふっと優しい微笑を浮かべた。

「君はここをどこだと思っているんだい?」

 言われて、彼女は改めて周囲を見回した。岸を埋め尽くすのは、裾が染まるほどの女郎花。風に揺られてさんざめく。きらきらと輝くは含んだ朝露。

 いいえ、違うわ。

 再び、彼女は花々を眺めやる。

 この煌めきは、星の瞬き。数多の花弁が集まって、天を彩る群星になる。

 では、この清流は。

「心残りは、ない?」

 彼は尋ね、彼女は「ええ」と頷いた。

 彼女は夫を愛していた。短い縁ではあったけれど、彼女の娘も。愛して、尽くした。彼女の生が許す限りは。

「うん。そうだね」

 彼が同意した。口にしていないのに、と彼女は驚いたけれど、すでに人の世のことわりから放たれた身なのだから、そういうこともあるのだろう。どのような不可思議も許される。

「ええ……。そして、貴方のことも」

 彼は愉しげに小首を傾げた。

「うん……。知っていたよ」

 貴方は知っていると。

 彼女は微笑んだ。

「そうだと……、思っていました」

 自身で選び取った人生を、持てる力で生き抜いた。課せられた責も十二分に果たして生を終えた。もう、彼らをいましめるものは何もない。

 彼は手を差し伸べる。幼い日に誓ったように。

 さあ、行こう。

 彼女はその手に掌を重ねる。

 約束の。

 ほしあいのそらへ。

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ほしあいのそら りくこ @antarctica

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