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「鴨院」は藤原道長のもの?

「人物叢書」シリーズの『藤原道長』を読んでいると、「鴨院は道長の所有」という記述がありました。

 おっとこれは……! となりました。というのは、一次創作(『氷姫』)のなかで「鴨院の伝領」は、持ち主である為尊親王が正室を愛していたことの証として使ったためです。

「鴨院」はもともと冷泉帝の所有で、のちに息子である為尊親王が伝領したと見られています。幾度か火災や水害にあっており、『権記』にも再建の記録があります。為尊親王がどの程度鴨院を使用したかは不明ですが、「1.鴨院は為尊親王の所有である」「2.正室が伝領している」という2点は当時広く認知されていたものと思っています。

 というのは、為尊親王の正室は「鴨院の上」と呼ばれていて、為尊親王没後も自宅として彼女が使用していた記録があるためです。

 しかし、『藤原道長』の著者は山中先生。本当に「道長の所有」だったのか、気になったので調べました。
和暦(西暦)   所有者   事 件   備 考
長徳元年(995)  冷泉上皇  焼亡     道隆・伊周の二条第も焼亡(小右記)
長保4年(1002) (為尊親王) 為尊親王薨去

長保5年(1003) (為尊親王室) 再建 (権記)
寛弘8年(1011) (為尊親王室) 良経元服 (権記)
寛仁3年(1019) 藤原経通(右中弁) (小右記)
長元元年(1028) 藤原経通  焼亡 (日本紀略)
寛治4年(1090)      陽明門院還御 (中右記ほか)
嘉保元年(1095)     陽明門院薨去 (中右記ほか)
嘉承2年(1107)      源師頼(右兵衛督) 焼亡 (中右記ほか)
『大日本史料』のなかで寛弘2年の記事として8月9日条「道長、鴨院を建つ」とあります。しかし、その日の『権記』にはそのような記述はありません。完成した鴨院のために読経が行われたと書かれています。『権記』では、この記事の前に鴨院工事のための記述が多く、道長邸に参じて相談している様子が窺われ、そのため『大日本史料』でじは道長の所有と考えられたのではないでしょうか。

『大日本史料』は「宮の上」を倫子とするなどよくわからないところもあって、作成当時、そうした間違いがあったのかもしれません。

 また、後年鴨院は陽明門院(後朱雀天皇の皇后。三条天皇皇女であり、為尊親王には姪、道長の孫に当たる)が里第としているため、道長のものと受け取られたのかも。

 もちろん、冷泉帝あるいは為尊親王の所有であったことは知られていたでしょうが、為尊親王が鴨院が再建される前の年に亡くなっていることもあって、いくら姪とはいえ早くに亡くなった為尊親王の邸宅に皇后が滞在するのは少し不自然な気もします。

 そもそも、鴨院はどのような経緯を経て、陽明門院の里第となったのでしょうか。その辺を整理してみました。

①(為尊親王→)親王室

 為尊親王室は、藤原伊尹の九女で、四納言・藤原行成の叔母にあたる女性と考えられています(『鴨院の上:栄花物語人物考』(杉崎重遠))。これは普通に正室として伝領したのかな? と思います。

 未亡人になった後、藤原経通が鴨院に住んでいた頃には、菅原院で行成と同居あるいは隣居していたことがわかっているため、それ以前に手放したものと思われます。

②藤原経通

 次の所有者・経通は小野宮流の藤原懐平の息子で、源保光の娘を母としているため、行成には従兄弟に当たる人物です。また、為尊親王室は保光の妹である恵子女王を母としていることから、従姉妹の息子・従甥になり、彼女にとってもあんまり他人ではありません。なお、行成は、祖父・伊尹の遺産を多く所有している叔母の財産管理をしていた節もあります。

 これは売却されたのでしょうか? 鴨院は東三条院や二条第など重要な邸宅の密集した場所に位置するため、売却する際にも信用のおける身内を相手とした、と考えるとありそうな感じもします。

 経通は少なくとも十年ほどは鴨院に住んでいたようですが、焼亡後の経緯はわかりません。経通の息子たちは政治的には恵まれなかったため、鴨院を手放したのかもしれません。

③不明→源師頼

 鴨院が次に登場するのは、62年後、陽明門院が還御するという記事においてです。しかし、邸宅の主ははっきりしません。持ち主がわかる記述は、さらに17年下った嘉承2年(1107)焼亡の記事になります。このときの所有者は源師頼です。

 邸宅はよく女子相続されるので、師頼の妻から過去の所有者をさかのぼってみます。ちなみに、焼亡時、師頼の蔵書が多数燃えてしまったとのこと。ちょうど大江匡房を招いて披露していたときだったとのことなので、数年来は住み続けていたと考えていいかと思います。

 師頼の妻は天永3年(1112)に死亡記事があり、享年39才と記録されています。火事のあった5年前にも結婚していたと考えて差し支えない年齢なので、この死亡記事の女性を正室とします。

 師頼室の父親は藤原家通。道綱のひ孫にあたる貴族で、祖母は陽明門院・禎子内親王の乳母であった弁乳母です。彼は禎子内親王の別当でもありました。要は乳母・乳母子かつ皇族の家司の家系ということです。

 よって、陽明門院が還御したのは「別当の提供した邸宅」と考えて、この時点での所有者は家通だったということではないでしょうか。

 後半の所有者は④藤原家通、⑤源師頼として、その前は誰のものだったのでしょう?

 家通は陽明門院還御の際、35歳。鴨院を入手するほどの財力を持っていたと考えるには若干若いような気もしますが、平安時代の年齢は今と感覚が違うかもしれません。でも、彼の国司経験もさほどの大国ではないんですよね。京の一等地を買えるほどかなあ…… という印象がどうしてもあります。

 そのほかの入手方法として考えられるのは「妻の所有であった」あるいは「相続によるもの」のいずれかなので、ひとつずつ考えて見ます。

(1)妻の伝領した邸宅であった場合

 家通の妻は、藤原行房の娘です。行房は良世流(冬嗣の八男)で、藤原邦恒の息子です。母親は南家である信理の娘なので、今まで出てきた人たちとは血縁関係は薄い感じです。

 行房自身高階氏の女性と結婚している受領階級であり、摂関家である藤原頼通・師実の家司をしていて、かなりの財力をもっていたようです。彼も陽明門院別当(永保2年(1082))であり、鴨院も彼が所有したと見られています(『家司受領藤原行房と出雲国正税返却帳』大日方克己/島根大学)。 ここから考えると、行房が購入した鴨院に家通が婿どられたという感じでしょうか。家司同士の結婚ですね。

 その後、そこが陽明門院の里第になった、ということになります。むろん、無意味に購入したわけではなく、摂関家家司としてこうした里第としての使用も頭にあったんでしょうね。

(2)相続だった場合

 この場合は、経通から師頼に至る入手経路に血縁・婚姻関係が必要ですよね。

 家通室の母親が誰であったのかはわかりませんでした。父親は藤原顕綱で、後三条帝の側近的家柄ですが、こちらも鴨院を伝領する伝手はなさそうです。お金で買っちゃった、というならありですけども。

 師頼は源俊房の嫡男です。父・俊房は“狂斎院”の相手として知られる摂関家の貴公子ですが、鴨院との関係はないようです。師頼の母親は源実基(高明の五男で、道長の妻・明子の同母弟・経房の子)の娘で、祖母は小野宮の懐平の娘です。つまり、経通と師頼の祖母は兄弟ということになります。しかし、相続という意味ではちょっとなさそうな遠さです。売却先として信用調査に通る、というのはあるかもしれませんが。

 と考えると、妻経由の伝領が一番ありそうなセンかなあ……と思います。その前提で流れを整理すると、鴨院の所有は

為尊親王→①為尊親王室(伊尹九女)/藤原行成→②藤原経通→③藤原行房(売却で入手?)→④藤原家通室(行房女)→⑤源師頼室(家通女)

ではなかったかなあと思います。陽明門院の里第として提供されたのも、乳母子・家司との関係ではないかと。

 要は道長の所有だった時期はなかったんじゃないかなと思います。

その後鴨院は永久6年(1117)に藤原忠実が新造しています。その前の段階で献上されたのか、買収したのかはわかりませんが、最終的には摂関家のものとなって平安末期を迎えたようです。

(2105/5/24)

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