10年ほど前に備忘録として書いた記事です。個人サイトで公開していましたが、リニューアルにつき削除するので、こちらに移します。時間は当時です。
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一ヶ月ほど前、『かぐや姫と王権神話~『竹取物語』・天皇・火山神話』(保立道久著)の話を知人としていて忌部の話になりました。そこで「そういえば織田信長は忌部の後裔だって言っていたんだよね」と教えてもらいました。
忌部氏というのは奈良県橿原市周辺を本拠地にしていた古代豪族で、藤原氏の出身である中臣氏と同じく祭祀を担った古い氏族です。
「なんで忌部?」
「さあ…。理由は不明です」
「かなりマイナーですよね。忌部なんていっても、今知っている人はあんまりいない…」
「なんでしょうね」
ふたりで首を傾げました。
覇権を手中にしようとする武門は「源氏の後裔」を名乗ることが多いですよね。
私は戦国時代には詳しくありませんが、源氏でもなければ平氏でもない、古代豪族の中でも中臣や大伴のように有名でもない忌部というのは、どうもちぐはぐな気がしました。
実際、平安時代に力をもった貴族としてはまるで名前が出てきません。ましてや五百年ほど時代が下った戦国時代に「忌部」といってピンとくるものでしょうか?
その後、『アマテラスの誕生: 古代王権の源流を探る』(溝口睦子著)を読んでわかったように思いました。 この本は、古代日本で行われた日本神話の再編を読み解くことによって、当時の日本が選択した政治的判断と変革を説明しよう、という趣旨のものです。
その中で、忌部は「大王家(=のちの天皇家)を補佐する家臣といえる部族」である「職掌を名前に冠した<連>」として登場します。
同じグループに大伴氏、物部氏、中臣氏がおり、彼らは古代豪族、すなわち歴史的にある地域を所有する独立性の高い血縁集団、ではなく、最近登場した新興集団として大王家をサポートしています。他方、阿部氏、蘇我氏、賀茂氏などは地名を集団の名前にしており、いわゆる古代豪族に相当します。
この見方で「大化の改新」前後を考えると、旧来の社会システムを覆すために朝廷内で力を振るっていた名門豪族である蘇我氏を倒し、個人的な忠誠を尽くす新興勢力とともに中大兄皇子たちが革命を起こした…… というように受け取れます。さらにその後の大伴氏と藤原氏(中臣氏)の勢力争いも、政権がある程度安定したのちに新しい勢力図をさらに書き換えるものであった、となります。
とても面白かったので、興味のある方は、ぜひ書籍を手にとってみてください。
そこで、「忌部」を上記のような意味をもつ名前と考えると、織田信長がわざわざマイナーな忌部を先祖に掲げた意味も理解できるのかなと思いました。あるいは、現在は知られていなくても、当時は『日本書紀』や『古事記』の世界観は広く知られており、その名前ですぐに「天皇を補佐する存在である」とわかったのかもしれません。もしかしたら、織田信長の近い先祖に実際に忌部の血を受け継ぐ者がいたのかもしれませんが、『アマテラスの誕生』によると「血縁関係はなくとも、擬制の血縁関係を結ぶことによって、その血縁集団の一員となる」という考え方が有効だったそうなので、戦国時代でも「名乗ることによって、そう認知される」という手法が意味をもっていた可能性はあります。
ともかく、大事なことは「忌部を名乗る意味」ですよね。これは「天皇を補佐する存在」みたいです。
名乗りもどういうタイミングで行うか、どういう場だったかによって効果も意味合いも異なるので、その時代に疎い私には厳密な意味での意図はわからないのですが、彼の行動に「忌部氏たるべし」という自覚があったと考えると味わいも変わってくるかと思います。
戦国大名の中にも、古代が生きていたんですね~。
(2015/5/24)