一 露降る星合の空(4)

 昨夜、もちろん、彼は姫の許に忍んで行こうとした。予め、その申し合わせもしてあったし、この屋根の下、ふたりの仲に反対しているのは肝心の主だけという有様なのだ。元服間近の長男も姉に味方していたうえ、末弟の小君などはすっかり義孝に懐いており、折に触れては父上は意地がお悪いと抗議している。


 我が家が敵地同然であることを、むろん、惟正はちゃんと把握していた。


 対抗策として、春宮亮に任じられてから家人となった新しい顔ぶれと、その身内とできっちり義孝の寝所周辺を固め、東の対への移動を夜通し阻止し通した。義孝とは面識のない人々であることに加え、どうやら武芸に秀でた無骨な一門であるらしく、和歌や故事のひとつも引用して抜け出そうとするのを


「いや、我々にはわかりません」

「客人の御身をお守りするよう仰せつかっております」


の一辺倒でいささかも揺るがない。結局のところ、朝方まで義孝は彼らに阻まれ、義孝はまんじりともできずにいたのだった。


 これは相当なことだぞ、と彼は思い直した。

 そ知らぬ振りをしながら、年増の家女房に朝の支度を手伝ってもらいつつ、そっと眉を顰める。彼がここまでしているのに拒絶の態度を崩さないとは。ふだんは涼しげな様子を崩さない彼だったが、今朝は不愉快さを押さえきれないでいる。


 夜明けとともに、さすがに簀子やその前に控えていた武士もののふたちの数も減ったようだった。目でちらと確認した家女房は小さく「お察し申し上げます」と囁いた。


「それで、姫は?」

 彼も気づかれぬよう腕を上げた拍子に合わせて、彼女に尋ねる。以前から見知ってはいるが、親しくはない。けれど、彼女も味方なのだろう。


「それはもう……。お嘆きになって。殿をお近づけにならないのです」

 ああ。彼の胸は痛んだ。芯の強い女だから、心を折ったままにはいないだろう。でも、今、側に寄って慰めてやりたかった。そうすれば、あの蒼天よりもまばゆい笑みを見せてくれるに違いないのに。


「本当にむごいことをなさる」

 どれだけ悲しんでいることだろう。


 人に聞こえぬよう口の中で呟くと、彼はふと思い立って女にそっと耳打ちした。

 支度が済んだ頃、小君が彼を呼びに来て、惟正が膳を用意していると告げた。これが結婚が適った後の露頭ところあらわしの宴ならこの上なく喜ばしいのに、と内心不満を滾らせながらもぐっと堪えて、彼はいつも通り穏やかに「では、すぐに」と微笑んだ。


 下げ角髪も可愛らしい童子姿の小君と義孝は、本物の兄弟あにおとうとさながら、仲良く並んで惟正の前に現れた。


「昨晩は、宿をありがとうございました」

 いえ、なんの、と惟正は応える。さぞかし機嫌を害しているだろうと気を揉んだのに、予想とは裏腹、丁寧な態度で接する義孝を目の当たりにして、ほっとする。名門の貴公子とはいってもまだ子どもだ。少年らしい癇癪を見せたとしても、不思議ではない。事実、名家の子息には行状の芳しくない者も少なからず存在している。


 その反面、まだ何か企んでいるのだろうか、と惟正は箸を使う間にもひやひやとして落ち着かないでいた。なかなかに頭の回る若者なのである。


 どうにかして、こちらの立場もわかっていただきたいものだが。

 惟正は密かに嘆息する。義孝のような御曹司にそれを求めるのは無理なことなのだろうか。


 表面上はあくまでにこやかに、言葉の端々に深い意味がないかと疑いつつも食事を終えると、朝、義孝の世話をした女房が彼の傍らにやってきた。「殿……、こちらが」と袂から出した紙を渡す。


 なんだ? 枕を覆っていた紙ではないか。

 彼は首を傾げる。広げたそれは、もはやただの枕紙ではない。達筆な字で、句が書き付けられていた。


―― つらからは人には語らむ敷妙の枕交はして一夜寝に来と


 やられた、と言葉を失う。

 一瞬、紙を持った手許をごまかすことも忘れ、向かいで知らぬ顔で小君をからかっている義孝を見る。咄嗟に思い直して慌てて枕紙を袖に隠し、それから頭を上げて彼を二度見した。


―― 冷たい方だ。もう宣言してしまおうかな、私たちはともに一夜を明かしたのですよ、って。


 これは。惟正はため息をついた。義孝と娘の経緯がなければ戯れで済むだろう……、けれど、昨夜の今朝では脅迫ではないか。


「おや、どうかされましたか? 少々、朝餉をお摂りになり過ぎたのでは? なにやら苦しそうですが」


「いやはや、年ですかな。さて、お若い方には物足りぬでしょうが。そうだ、水菓子くだものでもないか、ちょっと雑舎を見てきましょう」

 小君に、義孝殿のお相手を頼むぞ、と張り付いた笑顔を向けたのち、彼は足早に北の対に向かった。その後方にある台盤所は後回しだ。彼は自室に入ると、文箱の懐紙を適当な大きさに折り、筆を取る。だが、すぐには書き出さずに額に拳を当てた。


 まったく、私は、和歌は得意ではないのだぞ!

 人並み程度にはできるし、時間をかければ嫌いではないけれど、こんな即意妙当、機転を利かせた応酬には慣れていない。


 しかも時間がない。

 うんうんと唸り、それでもなんとか短時間でひねり出すと、彼はぱたぱたと懐紙を扇いで乾かしながら台盤所に赴く。「義孝殿の水菓子の下に敷くように」と言いつけて、大慌てで正殿に戻っていった。直前の簀子で鬢を整えてから中に入り、彼も義孝ばりのそ知らぬ風情を取り繕ってで座に腰を下ろす。


「今、半物が持ってくるでしょう」

 ははあ、と義孝も察した。「それは楽しみです」と笑顔を絶やさないながらも、彼は考えを巡らせた。


 何か返事をしたのだろう。それはそうだ。これで返歌がなかったら、野暮なことと笑い話にされても文句は言えないし、下手な返しをしてもやはり話の種になる。どのみち、上手いこと応えたとしても、やはり彼は人に「こんな面白い趣向があってね」と話すつもりでいた。


 彼は、人々が自分の詠歌に興味を持つことをよく知っている。叔母の荘子女王、つまり麗景殿女御が開いた歌合からこちら、和歌の機会がある場所には大饗といわず、内輪の宴といわず、父専用の殿上童の如く連れ回された彼だ。愛らしい少年が瑞々しく見事な和歌を朗々と詠じるのだから、人気も集まるというもの。おかげで、藤原北家の重鎮たちとは例外なく相識の間柄となっており、好印象を与えることに成功していた。父親の伊尹は気にくわないが義孝は別、という者もいるほどだった。


 まあ、それは、師輔、伊尹と二代続いて色好みで名を馳せた九条流において、三世代めにしてやっと品行方正な若者が登場したという落差によるものだったかもしれないけれど。


 喧伝は、彼にとって良い牽制になる。少なくとも、右大臣の子息が懸想している姫君においそれと手を出す阿呆はいないだろう。どう転ぶにせよ、これで彼女が誰のものなのか周囲に伝えることができる。


 ほどなく半物が持ってきた高杯には黄苺イチゴが幾つか置かれていた。「嬉しいな。好物ですよ」と言ってひとつ摘み、下敷きにするには大きめの紙を取りのけて開く。返事であることは目にしたときからわかっていた。


―― あぢきなや旅の宿りを草枕仮ならすとて定めたりとか


 ふむ、と彼は眉を寄せて、顎に手をやった。相当に焦っていたのだろう。それにしてもあまりにもすげなさすぎる。義理とはいえ兄弟とも思って親しんだ仲なのに、こんな冷たい言い方はないのではと失望もする。


―― そんなバカなこと。たまたま泊まっただけの旅先を永住の地とするなんて、あり得ない話ですよ。


 落ち着いているとはいえ、義孝はまだ十七歳、これからやっと青年になろうという年ごろである。拒絶には、やはり傷つきもするし、不快にもなる。


 これではうまいことかわされただけになるではないか。人に言っても笑い草だ。みるみる彼の機嫌は傾いて、半ば自棄気味に「これはよろしくないですね」と少々ふくれっ面で懐紙を使って扇ぎ始めた。幼児のような手遊びである。

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