一 露降る星合の空(3)
はあ、と気乗りしないながらも、乳母は女童の
意味もわからず殿の勘気に怯えていた少女は穏やかな時間が戻ったことに気をよくし、実年齢よりも幼い笑顔を見せて「はい」と素直に袖から文を差し出す。この女童は、義孝に仕える橘道時の異母妹にあたる。道時の父・仲任が
それは取り上げられてはまずいと、父が廂に足を踏み入れる直前に女童の袖に隠したものであった。開けば流麗な文字が、彼女に彼の本心を教えてくれる。離れていても心は遠くない。
「姫さま……」
さすがに長く仕えた乳母は、心配そうに彼女を窺う。
「このような強引な方法でなくとも、いつか殿はわかってくださいます……。父親の許さない逢瀬など、なさるべきではございませんよ」
まともな分別を持った者の、もっともな意見である。
「方違え自体の許しはあるのですもの。そう受け取ったと言い切ってしまえば、それで何とかなります」
惟正と同じように、乳母も深いため息をついた。深窓の姫君にそぐわない妙な行動力を持ちあわせているのは、人とは違う育ちゆえ…… とはいうものの、今はなんと言っても従四位下を帯び、次代の帝をお世話する春宮亮の息女である。手前勝手な逢瀬の結果として人に蔑まれるのは義孝ではなく、彼女になるだろうと乳母はひたすらに案じているのだった。しかし、当人は恋に目が眩んでいるので聞く耳がない。
「それとも、山科は義孝様では不足だと思うの?」
まさか! 乳母は激しく首を振った。きちんとした結婚が成るのなら、これ以上はない相手だ。
「従前より姫様と義孝様のお仲は、ほかの誰よりもよく存じ上げております」
そうでしょう、と少女は婉然と微笑んだ。そうして落ち着きを見せていると、彼女は亡き母によく似ている。藤原国章の長女として生まれた母は大層美しい女で、惟正が娶ったときに悔しがった公達も多かったという。本当にお美しくお育ちあそばして、と乳母は女房として仕えた在りし日を思い起こして涙した。
「いやね、山科ったら大げさだわ。無事、義孝様の妻となれたら泣いて頂戴」
楽天的なことを言って、彼女は細長の上に広げた恋人からの手紙にまた目を落とす。涙もろすぎる、と彼女は乳母をそう評するのだけれど、その評価は少々酷といえるわけがあった。
父・惟正と母・章子の間には、彼女のほかにふたりの男子がいる。最初に生んだのは女子であった。これが、どういうわけか育たない。ひとりめは生後数日して亡くし、ふたりめは三歳を迎える前の日に命を落とした。妾腹も含め、男子は元気に育っていくのだけれども、惟正の娘たちは、なぜか例外なく病弱で力ない子どもたちなのだ。だから、この娘が生まれたとき、惟正はとても心を痛めた。そのときすでに次女はかなり悪く、まるで入れ替わるかのように生を受けた赤子だったからだ。
当時、彼はまだ左兵衛府に属する従五位にも満たない護衛官だった。妻の父もそれほど出世しておらず似たような境遇で、大きな寺から祈祷僧を呼ぶこともできずに先々を思い悩んでいた。そんな物思いのせいか、京を散策しているうちに洛外まで出てしまったらしい。見知らぬ小寺に迷い込んだ。そこで清廉な雰囲気を纏った老尼と出会い、挨拶を交わしたところから何とはなしに身の上話になり、気づいたら娘のことを打ち明けていた。
「お見受けしたところ、二の君はお気の毒ですが、もう間に合わないでしょう。けれど、末の女君は十になるまで半尻を着せ、男君としてお育てなさい。さすれば邪なものをくことが叶うでしょう」
変な忠告もあったものだ、とそのときの彼は思った。通常、女子より男子が弱い。だから、女装束を着せて成長を願うというのはよくある話ではあるけれど、逆はとんと聞いた試しがない。いずれの地方での呪いか、不審を感じつつも、親切心からだろうと礼を言うと、老女はくれぐれも十までは屋根のない場所で女装をしないようにと念を押す。別れたあと、馬鹿馬鹿しいとは思ったものの、自宅に戻った彼は、ふと気休めになればと思い直して、訝しむ妻を説得し聞いた通りにやってみた。もう、娘を失うことに疲れていたのである。
そのおかげか、千女と名付けられた末娘は兄と同じようにすくすくと育ち、国司として赴任した先が田舎ということもあって、それはもう元気いっぱいの幼女になった。
少々、気が、ありすぎた。
そろそろ女装束を、と着せてみても嫌がってしまい、半尻どころか下男たちのような水干姿で遊んでいる。これではとても然るべき公達に娶せることなどできない。まだまだ先の話とはいえ、どうしたものだろうかと気を揉んでいた矢先、まるで娘の成長を待っていたかのように妻の章子が逝去した。直接の原因は、末弟となる小君を出産した折の産褥のせいだった。
この上は男手ひとり、しかも田舎で姫として娘を育てることなどできないと父は決断する。任期が終わる前、彼は雑務に合わせて娘のみを伴って帰京した。
田舎に置いていたのでは、いつまでたっても娘は野生児のままだ。やはり姫としての教育を受けるには、都会でなければならない……。そう考えた惟正に、すでに我が子と他の何人かの継子を育てていた妻・恵子女王に預けてみれば、と提案してくれたのが、藤原伊尹であった。その数年前より、彼は九条の若殿とも呼ばれる伊尹とは猶子関係を結んでいる。むろん、否やはない。
そうして、鄙で育った美しい童女は場違いともいえる京の中心にやってきた。もっとも、単純な引越しでは彼女の本質は変わらなかった。少女が姫として生きようと決意したのは、別の出会いのおかげだったのだけれど。
そんな育ちのせいか、少し風変わりなところのある姫君は、未だにその片鱗を見せて周囲を慌てさせることがある。若い恋人の方は、その真っ直ぐではっきりしたところが好ましいと言って気に入っているが、それは貴重な例外である。乳母の山科も、本当のところは、このまま義孝の妻となってくれた方が余程安心と思っている。結婚してから変わり者と露見してしまい、夫の訪いが耐えてしまっては亡き母君に申し訳が立たない、という切実な心配もある。とはいえ、結婚の最終決定権は、今や右大臣である、義孝の父・伊尹にあった。
「さあ、義孝様をお迎えするのだから、塵ひとつ落ちていてはいけなくてよ」
女主人はいつになく張り切って支度を調えている。自分たちの企てが成功すると信じて疑いすらしない姫が、山科は気がかりでならなかった。
やがて、義孝の訪問を知らせる下男の声が通りから聞こえてきた。右大臣の息子といえど、まだ五位の権佐の身ゆえに彼は牛車を用いない。おかげで優雅に前庭を歩く姿を長く目にできると、家女房たちが騒いでいる。まるで絵巻の公達のよう、噂の通りだと
当代一の今業平かしら。いいえ、そんなに浮ついた貴公子ではないわと、若い青女房たちが口々に評をつける様を目にしながら、姫は期待に胸を膨らませる。家の者は古くからの家女房から下仕えに至るまで、彼女たちに同情的だ。出入りする家人も義孝と仲の良い者が多い。そのほとんどすべてにちゃんと言い含めてあるのだから、失敗する要素はひとつだってありはしない、と彼女は密かに頷いた。
ああ、いよいよなのだわ。
星は見えないけれど。
彼女は天上を見上げる。
夜空の下、愛しいあの人と星を語らうことはできないけれど、それだってそんなに先じゃない。彼女はぎゅっと両手を握りしめた……。
その、翌朝。
義孝は正殿でひとり目覚めた。まったく少しも嬉しくない寝不足である。本当なら、千女君の柔肌をに朝を迎える予定だったのに。
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