一 露降る星合の空(2)
数日後、二条三坊の自宅で、
また強引な手段を採ったものだ。
惟正は唸った。とはいえ、その焦りはわからないでもない。娘を妻に欲しいという義孝からの遠回しな消息はもう何通も受け取っていたし、以前から彼らが恋仲であることも周知の事実だった。幼馴染の筒井筒というやつで、家中の者たちも微笑ましく見守っている。
正直なところを言えば、惟正にとっても悪い話ではない。伊尹とは猶子であるとはいっても実際に父子の時間があったわけでなし、右大臣の嫡流に生まれた息子と一人娘との縁組みが成り立つのであれば、これほど心強い話もないだろう。
しかし。
肝心の伊尹が許さないであろうことは、惟正にもよく了解できていた。
正妻腹の恵子女王の子とはいっても、義孝は四男である。長男らとは年も離れており、それほど結婚相手に気を配る必要はない。だから、幼いふたりが「婚約した」とにこにこしながら手を繋いでやってきたときには、伊尹は「それはめでたい」と杯を取らせる真似までして盛り上げたのだ。
だが、それも
早くに長男、つい数年前には次男と相次いで愛し子を失った伊尹の悲嘆は大変に深かった。童子の頃ならまだしも、ふたりとも右兵衛に任じられ、これからという若さだったし、次男・惟賢は結婚したてで妻は妊娠していた。嫡流に生まれた男子は、惟賢の下にあと三人。三男・挙賢を跡取りとしているけれども、万一を考えて四男、五男の扱いには慎重になっている。
そんな事情があっては、すでに自分自身と猶子関係の惟正を後回しに考えるのは仕様のない面もあった。
とはいえ、それは父親たちの勝手な理屈。もう何年もこの人と思い定めてきた義孝たちにとっては到底納得できない成り行きだった。大切に育てられ、ようやく大人の仲間入りをしたばかりのふたりには、その辺の機微を把握しろといっても無理な話であった。
子煩悩で知られる惟正には、どちらも言い分もよく理解できる。けれども、そこは一家を支えるひとりの公家であり、数多くもうけた息子たちに責任を負う父でもある。一人娘の結婚が、今後どのように息子たちに影響するか、伊尹以上の思慮が求められる。義孝殿には娘を思い断っていただかねばならぬだろうよ、と彼は重い腰を上げた。
息子同然の若者に加え、彼には、我が家の頑固者にも言い聞かせる役目が待っている。
渡殿を通って東の対に出向き、彼は御簾をくぐると
答えはない。
「姫、どうしたのだ」
何度か呼びかけると、やっと「何のご用です、父上」と物憂げな
「いい加減、機嫌を直してはくれまいか」
はあ、と、ついため息が出てしまう。状況が変わらないのだから、彼女が折れるわけもない。父上こそ、と即答した後、彼女はだんまりだ。伝えたら余計にこじれるのだろうな、とはわかっているのだが、伏せることもできないので、父は意を決して口を開いた。
「今夜、義孝殿が方違えに参られる。
えっ、と驚きを零す気配が伝わった。それが喜色になる前に、惟正は慌てて言葉を継いだ。
「勘違いするでないぞ。あくまで方・違・え、だ。おまえはここのところ気鬱で臥せっているのだから、間違っても顔を合わせることなどないようになさい。うむ、触れてはいかん」
病など口実と知っているくせに、と彼女は頬を膨らませた。
「さあ、どうでしょう? そういう病は物の怪の仕業とも言いますし、一刻もすれば治っているかもしれませんわ。それに義孝様といえば父上には
何を白々しい。惟正は腕を組んだ。
「いやいや、姫ももう成人したのだから、以前のように気安い付き合いのつもりはいけない。お互い悪い噂が立ちでもしたら、右大臣殿にも申し訳が立たない。いつも通り籠もっていなさい。そうだ、それがいい」
決めつけられて、彼女は憮然とした。
「何故、お父様はそう意地悪をなさるの? これはダメ、あれもダメと、私から取り上げてばかりですわ。そんなに娘が憎くていらっしゃるの?」
父はもう一度ため息をついた。裳をつけたとはいえ、これでは童女と変わらないではないか。
「もう子どもではないのだから聞き分けなさい。おまえには、この父が必ず良い殿方を婿取りさせてやろう。だが……」
彼女は、さっと両の袖で顔を覆い、衣擦れの音と声の振るえが父にも伝わる。
「そんな方は要りません! それなら尼にでもなった方がましです……。どうしてわかってくださらないの? 義孝様でなければ、他に夫など要らないのです」
強気を見せていたと思えば、激しく泣き出す。ほとほと困り果てて、父は「……山科」と乳母に助けを求めた。娘が十に満たぬうちに妻を亡くし、以来正妻を持たずにいた彼にとって、思春期の少女は妖怪よりも厄介だ。父娘の会話に口を挟んでは、と自重していた乳母が「お任せくださいませ」と泣きじゃくる彼女を引き取ってくれたので、惟正はほっとして立ち上がった。
「とにかく、愚かな振る舞いはしないように。山科たちもよく気を配っておけ」
言い置いて早々に逃げ出す。
義孝殿でなければなどと、まだまだ子どものくせに何を一人前のことをと思いつつも、幼さゆえの思い詰めた気持ちで軽はずみな真似をしないとも限らない。これは別に手だてが必要か、と彼は娘の激しい反応に接して改めて、彼はそう考えた。
ああ、独立した部屋など与えるのではなかった。西の対に弟たちと一緒に住まわせたままなら、まだ見張りもしやすかったものをと後悔しきりの惟正だったが、後の祭り。寝殿中央に据え置いて、はっきりと婿取りの意志を周囲に喧伝するよりはマシだったけれども、成人させる時機を見誤ってしまった、と思った。
一方、涙にくれていた娘の方はというと、父の足音が遠ざかるとむくりと身を起こして、涙を拭いた。もとより、しおらしく父の言いつけを聞く気などない。
「山科、義孝様からのお文は?」
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