一 露降る星合の空(1)

 まだ返事はないのか、と少年の面差しを残した青年は自邸に着くやいなや、側仕えの青年を促した。優雅な風情に似合わない苛立ちを隠そうともしない。催促された方は歯切れ悪く、「なかなかにお忙しいようで」と言葉を濁した。


「いや、すまない、道時。おまえに当たっても仕方がないのだが」

 わかっておりますと橘道時たちばなのみちときは頷く。


 良家の子息として何不自由なく育てられた若者には、えてして我が儘な人物が多い。加えて乱暴者で女好きという手に負えない例だって珍しくはない。彼らに比べれば、青年は両親に溺愛される典型的な貴公子ではあるけれど、自ら非を悟って謝る謙虚さなど、持って生まれた美点を幾つも兼ね備えている。元来が素直な性格なのだ。そのことを乳母子めのとごである道時はよく知っている。


 青年はため息をついて、「少し付き合え」と自分の曹司に戻る前に道時を誘った。


 彼の名は、藤原義孝。一昨年元服を迎えた若き公家である。成人後の新春には侍従、次いで即座に左兵衛府の権佐に任じられた。勢いのある藤原氏北家にとって、これは政治を担う参議へと繋がる既定の出世路線である。右大臣・藤原伊尹ふじわらのこれただを父に持ち、今を時めく摂関家の嫡流に生まれた義孝には、兄たちと同じく用意された任官であった。ごく近いうちには少将への昇進を仄めかされており、その前途は洋々たるものだった。


 道時は義孝よりは少しばかり年上で、初め、母親は義孝の兄である挙賢たかかた乳母めのととして仕えた。その翌年、年子として生まれた義孝の乳母にもなったのが自然の成り行きなら、道時が挙賢よりも義孝と性が合ったというのも同様の流れだった。挙賢の方は、さらに上である道時の兄・道貞と気が合うようだった。どちらも武芸に熱心なので、性向の問題だったのだろう。


「何故、惟正殿は色よい返事を下さらないのだろうか」


 狩衣に着替えたあと、義孝は簀子に出て高欄に肘を突いた。春は深まり、初夏の気配が迫っている。まだ熱を帯びる前の風に揺られて物思う姿は物語の一場面のようで、同性ながら道時は密かに、内裏の女房たちがすでに目をつけているという話も無理もない、とひとりごちた。


 道時にとって直接の主は、伊尹になる。とっくに四十を越えた伊尹ですら、現在でも端正な容姿の公達であり、その子どもたちは例外なく美形揃いと評判は高い。なかでも四男であるこの青年は一際輝いている。


 十年ほど昔のこと。先帝の女御である荘子たかこ女王と、義孝の母であり、伊尹の正妻である恵子さとこ女王が歌合を開催したことがあった。


 ふたりはどちらも代明親王との娘、つまり姉妹同士でおこなわれた個人的な催しもの、という体裁であったが、実際は伊尹一家の存在感を強めるための政治的な企画であった。それをおいても歌人としても知られた伊尹の息子たちがどれほど才能を受け継いでいるものか、好奇心が刺激される部分もありはした。


 義孝は、見事その面目を躍如した。子どもらしい下げ角髪姿ながら、外見に見合わぬ優れた詠歌で大人たちを魅了し、その後酒宴の席でも話題に上るだけでなく、同行を求められたりと顔見世以上の効果を発揮した。犬猿の仲であるふたりの叔父、兼通と兼家ですら、長兄・伊尹の息子たちについての意見は割れなかったほどだ。もっとも、この頃、まだ叔父たちの仲はさほど悪くはなかったのだが。


 出自も、父親の地位もずば抜けて良く、和歌に秀でた眉目秀麗な若者……、とあっては、本格的に業務をこなすのはこれからとはいっても、女たちが放ってはおかないことは間違いなかった。しかも、女性関係は父や祖父に似ることなく、義孝には色好みの心は毛頭ない。もし、そんな彼に「どうしても」と請われることがあったら、娘を差し出すのをためらう者はいないだろうと思われた。


 しかし、残念ながら、源惟正はその数少ないひとりである。


「惟正様は、お父上のご猶子ともいえる方。きっとお考えがあるのでしょう」

 道時の立場では、そう慰めるのが精一杯だ。


 源惟正は伊尹にとって古くからの馴染みで、形式上ではあったが猶子関係を結んでいる。年齢が近いふたりの間柄はもちろん父子というより友人であり、あくまで政治上の約束ごとだった。そんな取り決めが成立するのも、彼らが親友同士であり、親密な付き合いが存在するがゆえだ。


 私にとっても、惟正殿は長兄ともふたりめの父ともいえる方だ、と義孝は不満げに檜扇ひおうぎで自分の顎を突いた。開いて扇ぐほどの暑気はない。


「だからこそ、喜んでいただけると思ったのに……。それに、あとはお父上の惟正殿さえ許可をくださればよいのだし」


 姫君の承諾は、とっくに得ている。折々に触れたやり取りは数年に及んでいて、今さら改めて妻問いのために消息を送る必要もないほど、彼女の心は近くにある。あの七月の約束を、幼い恋人たちは忘れずに守っていた。惟正も、そのことを知らないわけではない。


 千女君。


 彼女の名を心に描く。彼が元服した翌年の暮れ、彼女も裳着を終えた。儀式では伊尹が腰結いを務めたので、成人して立派になった彼女の様子を詳しく伝えてはもらえたのだが、その一方、表向きの行き来は耐えてしまった。大人になった男女が正式に文を交わすのは、結婚を前提にしていなければ許されない。父親の許しのない交流は密通となる。当然、彼女が何という名前になったのかも聞かされていない。


 君はどういう名になったの。早く知りたい……。その名前で呼びたいよ。


 目を閉じれば鮮やかに面影は浮かぶ。一緒に過ごした数年間は、多少の別離では褪せないほど、色濃く姿を彼の胸に焼き付けた。

 ふっと彼は首を傾け、思案顔を作る。いいことを思いついたのだ。


「道時」

 傍らにいる幼なじみに声をかけた。その音を聞いて、道時は「四君……」とつい幼名を零す。父にも母にも兄弟一に品行方正で、信仰心も厚い息子と受け取られているけれど、実像は、と言うとそうでもない。罪のない悪戯をしては屋敷で雑用をする半物はしたものをからかったり、冗談で舎人を惑わせる悪い癖も持っている。ただ、すぐにあどけなく可愛らしい姿で「ごめんなさい……」としょんぼりとして見せるので、誰も怒りきれないだけなのだ。間近でそれをよく見知っている道時は、またですか、と、息をついた。


「おや、私の恋路を手伝ってはくれないのかい」


 義孝はそう声を落とし、ぱっと檜扇を開いて顔を背けた。

 わざとらしく傷ついた振りなどして。拒否されることなど、微塵も頭にないくせに、と道時は少し呆れる。愛されることに疑いのないさいわい人というのは、稀に存在するのだ。さんざん思い知らされていても、当の道時が一番この若き主に逆らえない。はいはい、と彼は肩を竦め、「今度は何をたくらんでおいでです」と尋ねる。


「人聞きの悪い……。文を一通届けるだけだよ」

 素晴らしく爽やかな表情で義孝は笑った。

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