ほしあいのそら

りくこ

プロローグ

 暗い空に届けようとするかのように、竿の先につけた灯火が幾つも幾つも高く掲げられている。今夜、男たちの出払った屋敷の主は女人たちだ。


 ふだんは奥に引きこもり、通り過ぎる風すら遠ざけるような姫君たちも、几帳を立て扇を広げつつして簀子間際までやってきて、盆に張った水に星々を映して眺めている。彼女たちが身につけた、闇にも鮮やかな夏のかさねまで翻すほどではないものの、風に乗って上品な香りが小川のせせらぎのように流れ出来る。


 そう考えれば、頭上にある数々の明かりはまるで水面に集まる蛍のようじゃないかと、少年はふっと笑みを零した。その思いつきを誰かに伝えたかったのだけれど、母と姉妹たちは手元に降りてきた星々に夢中で彼の相手をしてくれそうにもなかった。


 早く二の兄上が帰ってくればいいのに。兄弟の中で彼を最もよく理解してくれる年の離れた次兄は、父とともに宮中の行事に侍っていた。


 時は文月のはじめ。天上では引き離された男女が年に一度の逢瀬を楽しんでいる。


 彼はひとりきざはしに腰掛けて、肘をついた。夜気が心地よい。彼には兄弟が多い。ひとつ年上になる三の兄と、三つばかり下になる弟は池近くに挿した竿の下で遊んでいた。男子である彼らにとって星合は、好きに夜更かしのできる日という以上の意味はないのだろう。


 その様子をぼんやり見ていると、ふわりと衣を揺らして、東の対へ歩いていく汗衫かざみ姿が視界に入る。両肩から前後に垂らした長い布地は、着るというよりも纏うといった方がぴったりで、夏らしい軽やかな白い薄絹がまるで蜻蛉の羽のようだった。

 あれは……。

 彼は母親たちを窺い、けれど、声はかけずにその後に続いた。皆のいる北の対と東の対を繋ぐ透渡殿すきわたどのを下りたところで追いついて、「どうしたの」と声を掛ける。少女はゆっくり振り返り、大きな黒曜石の瞳で物言いたげに彼を見上げてから、なんでもないとばかりに首を振った。


「気分でも悪いの、筑摩君つかまのきみ

 最後の言葉を聞いて、彼女は引き締めていた口元を少し歪める。あれ、いけないことを言ったかな、と彼は、すぐに「ごめんよ、千女君ちめき」と謝った。


「ううん、違うの、四の君のせいじゃないの」

 頭を振って強く否定する。はっきりと物をいう質だから、彼女が主張するのなら、それは本当なのだろう。どうしたの、と重ねて尋ねると、彼女は家の者たちが集まった簀子を気にする素振りを見せる。「秘密にするから」と促されて、彼女はやっと重い口を開いた。


「あのね、星が見たいの」

 え。少年は目を丸くした。今日、七月七日はふたつの星が出会う乞巧奠きこうでん。まさにそのための夜ではないか。


 ここにいる女たちの中で彼女ひとりが血の繋がりを持たない。親しいものたちが放つ空気への遠慮があるのだろうか、と彼は考え、彼女の手を取る。もと来た方へと導こうとした。

 しかし、彼女はもう一度首を振る。


「水盤に入れた影じゃなくて」

 じっと彼を見つめる。


「本当の星が見たい」

 それから、袖で天を示す。


 確かに頭上には満点の星。


 おや、と少年は思う。星合の空といえば、水鏡の映すもの。今までずっとそうしてきたけれど、直接眺めていけない理由はないだろう。


 同時に、彼女の失望も理解できた。手元に設えた盆に星影を捉えて楽しんでいる人たちの前で、ひとりぽかんと空を仰いでいれば、なんておかしな女の子だろうと思われるかしれない。そうでなくても、つい数ヶ月前に少年たちの暮らす桃園へとやってきた少女は、その時点でかなり風変わりな子どもだった。


「いいよ」

 彼はにっこりと笑った。


「じゃあ、行こうよ」

 彼は彼女の手を取り直し、東の対を通り越して簀子の端で階を下った。下男のひとりに言って絲鞋しかいを二足取って来させる。柔らかい牛革で出来た靴をふたりして履くと、そのまま彼女を引いて庭へ出て、すたすたと歩き行く。


「どこに行くの?」

 不安げに彼女は問うけれど、彼は「星を見に」と答えるばかり。やがて敷地の境界であるのっぺりとした築墻ついがきが見えてきた。四の君? と首を傾げると、彼は、ほら、と片隅を指さした。


 かつては多くの桃を植えた帝の御薗であった土地ゆえに今でも桃園と呼ばれるその周辺では、未だに古い木を備えている邸第も少なくない。少年の父である桃園中将の屋敷もそのひとつだった。もっともたくさんの家屋敷と妻を持つ主人は、常にその名で呼び習わされるわけではなかったのだけれど。


 そこには、年老いた果樹が一本と、ふたつほどの切り株があった。夜に腕を伸ばす幹はかなり古びていて、すでに太い枝を数本切り落としていた。


 不安げに木を見る少女の肩に両手を添えて、彼は「桃という木はね、こうして枝を落とせば、新しい芽が下から出てくるんだって」と教えた。ほっとした表情になって、彼女は「じゃあ、この株もそうなる?」と尋ねる。


「ううん、それはもう寿命を終えてしまったんだ。とても、とても昔から生えていたんだというよ」

 さあ、と彼は再び手を取って彼女を切り株へといざなう。そこに腰を下ろせば、背後にある青々とした桃の枝は、さながら彼らのための天幕のよう。


「きれい」

 目が慣れてきた。空に流れる天の川と、挟んでお互いを求める牽牛、織女の二星がよりはっきりと現れる。うっとりと見つめる、少女の横顔こそが綺麗だと少年は思った。しかし、一転、彼女は眉を寄せて寂しそうに俯いた。


「帰りたい……。筑摩に戻りたい。どうしてお父様は私だけ京に置いていってしまったの」


「ここが嫌い?」

 彼はそっと彼女の頭を撫でた。妹にするように。


「ううん……。ここのおうちは好き。桃園の姉上も、四の君もいるもの」

 彼女は考えて、ちょっと三の君は怖いけど、とすぐ上の兄については正直に告白した。


「でも、前みたいに野を歩きたいの。水に張った星じゃなくて、天にある星を見たいの……」

 自身もまだ幼い四の君には、彼女の父が抱える事情は詳しくはわからない。けれども、一度自由を与えられ奪われてしまった彼女の悲しみは察することができる。


 姫君として育つのなら、彼女たちの生きる術は多くはない。こんな風に決まり事から離れて気ままに星を愛でるのも、今の時期に限られるだろう。まだまだ先のこととはいっても、そのうちにやってくる大人の時間をふたりとも何となく予感している。変わって行く自分と周囲に、少女は漠然とした不安を覚えている……。


「じゃあ、君の願いを僕が叶えてあげるよ」

 少女は戸惑いつつも、帰れるの? と首を傾げたので、彼は微笑んで、それは無理だけど、と答えた。


「だって、千女君はお父上をおひとりにできないだろう? お父上だって、いつかは筑摩から京に戻られるのだもの」

 だから、代わりに。


「僕の妻になればいい……。どこへでも連れ出してあげるよ。紫野でも交野でも」

「本当? 本当に?」

 彼女は瞳をきらきらと輝かせた。暗闇の中、頬が薔薇色に染まる。


「そうだよ。ふだんは姫君で僕の妻だけど、ときどきは僕の弟君になって、一緒に馬で月夜を駆けるんだ」

 馬は苦手かな? と少年がからかうように問いかけるが、彼女は大きく首を振った。


「好き……、だいすき!」

 それはとても素敵な思いつきに思えた。彼女はぎゅっと彼の手を握り返して、やっと翳りの欠片もない笑顔を見せてくれた。


「嬉しい。本当に約束してくれる?」

 それなら私は四の君の妻になる、そう言った彼女は彼が知る誰よりも可憐だった。


 彼は契りのように、彼女に頬寄せる。少年のきょうだいたちはみな愛らしくて、父親である中将の自慢の種だった。なかでも一際美しいと囁かれる小さな貴公子がいきなり近づいたので、彼女の小さな胸も高鳴った。


「約束するよ」

 星明かり、天の原には散りばめられた数多の星々と、強く煌めく一対の恒星。まるでふたりして雲居にいるかのような心持ちだ。

 彼は頷く。


「来年も、その次の年も、ずっとずっと」

 高く差し上げたその、掌の先には。


「君に、見せてあげる」


 このほしあいのそらを。

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