第33話 花魁の生き様

 麟太郎がやけくそのように刀を振り上げたとき、ひゅっと耳元で風切り音がした。

 かと思うと、麟太郎の目前に迫っていた一匹が血を噴き上げる。


「間に合ったでありんすなあ」


 どこか笑っているような、やけにのんびりした声だった。

 耳を疑うより先に、目が起請文を捉えていた。


「緋里……」


 背後に立っているであろうことがわかりながらも、前を向いたままその名を呼ぶ。そちらを見るのが怖かった。


「ぬしの最期を見にきんした」


 ひどく真面目な声でそう告げる緋里の声に、つい振り向かずにはいられなかった。

 そこには艶やかな花魁衣装に身を包んだ緋里が、大量の起請文を片手に超然と立っていた。


 真っ直ぐに麟太郎を射抜く瞳に潜む感情は読み取ることができない。神々しささえ身にまとった姿に、妖かしたちがぴたりと動きを止める。

 緋里が視線を左右に流した。そして手に持った起請文を大盤振る舞いとばかりに、次々に妖かし目がけて放っていく。猛烈な勢いで放たれた起請文は矢のように妖かしたちの元に飛んでいき、ぺたりと貼り付いては、妖かしの身体から血を噴出させる。


 いたるところで血飛沫が上がり、さながらひどい土砂降り状態である。真っ赤な雨がばしゃばしゃと降り注いでは、世界を赤く染め上げていく。どっと血の臭いが濃くなり、あまりの血臭に息をするのも苦しいほどである。


「おい、ぼさっとしてんな」


 どこからともなく捨助が現れ、へたりこんでいた麟太郎の腕を引っ張り上げ、立たせようとする。ぼんやりと捨助を見ると、この血の雨の中を突っ切ってきたらしい捨助は全身ずぶぬれで、見るも無残な姿だった。


「おまえ、どうして……」


「どうして? 俺は花魁護衛だ」


 それがすべての答えだと言わんばかりに、捨助はそれだけ言うと、危なっかしい刀捌きで妖かしの群れの中へと突っ込んでいく。

 よろけつつも立ち上がった麟太郎は、改めて緋里の方を見た。


 それは空恐ろしいほどの光景だった。

 緋里が起請文を投げつける端から血柱が上がり、口説くぜつを唱えると、業火に焼かれたように一瞬で妖かしが蒸発していく。とても花落ちを患っているとは思えなかった。気力も体力も十分な全盛期の緋里をはるかに凌ぐほどの浄化力を発揮していた。


 壮絶すぎる時間はしかし、長くは続かなかった。

 緋里の体がぐらりと傾ぐ。


 麟太郎は弾かれたように走り出していた。体の痛みも疲労もどこかに吹き飛んでいた。ほとんど無意識で体が動き、思考が追いついたのは羽のように軽い緋里の体を抱きとめた後だった。

 その体の細さに打ちのめされる。とても浄化に耐えられるような状態ではない。死ぬ間際の小鳥を抱えている想像が頭をよぎった。

 緋里と目が合う。何を言えばいいのか、まるで見当もつかない。黙ったまま、ただ見つめた。


「離しなんし、麟太郎」


 静かな声で緋里が言う。その声には確かな拒絶の色が含まれていた。

 わずかな痛みを覚える自分に嫌悪を感じながら、麟太郎は緋里の体を支えた手を離した。良い匂いのするぬくもりが、かすかな手触りを残して離れていく。


「……どうして、俺の袖に香を入れた?」


 ふいをついて出た言葉に、麟太郎自身驚く。どれほど自分がその答えを聞かずにはいられなかったかを思い知るようだった。

 緋里は一瞬迷うように瞳を揺らし、そっと目を伏せた。


「――わかりんせん」


「え?」


「自分でもわかりんせん。でも……」


 言うか言わざるか、迷うように緋里が言葉を切る。

 麟太郎はお白州しらすで裁きを待つ罪人のように息を詰めて続く言葉を待つ。次の言葉がどちらに転がるか、麟太郎にとっては生死を分かつほどの意味に思えた。絶望に傾く恐怖に怯えながら、どうしても捨てきれない望みへと一縷いちるの期待を寄せる。


 緋里の唇が小さく震えている。寒さからではなく、花落ちのせいか、次の言葉へのためらいがそうさせているようだった。

 緋里は己の葛藤にケリをつけたというように、麟太郎へと真っ直ぐな視線を向けた。

 そのどこまで刺し貫くような強い目に、麟太郎は緋里の唇が言葉を紡ぐ前に答えを悟る。


「――わっちにはぬしを許すことができんせん」


 ああ――。


 全身の力が抜ける。予期していた答えであり、恐怖していた答えでもあった。

 だがそうして直接緋里の口から聞かされれば、心のどこかでその言葉を望んでいた気もした。


「……わかってる」


 一瞬、緋里が顔を歪めたように見えた。

 しかし次のときにはもういつもの毅然きぜんとした表情に戻っていた。


「わっちは吉原の花魁。初めて大門をくぐったときから、そう決まっていんす。他の何者にもなる気はありんせん。――誠をたっとび、義に生き、忠に死ぬのが花魁でありんす」


 秘密を打ち明けるように告げる。

 ふうわりと香の匂いが鼻の奥で香り、その瞬間、濁っていた思考に一筋の光が差し込んだ。


 麟太郎は思わず瞠目どうもくした。あまりの唐突さに息が止まる思いだった。

 太陽の光がどんなに厚い雲でもわずかな隙間を見つけて降り注ぐように、緋里がさも当然とばかりに告げた言葉は、麟太郎が分厚くまとった思考のおりを針の穴ほどの間隙かんげきからはらっていた。

 一度貫通した光は物凄い勢いで辺りに広がり、影を払い、それまでそこにありながら決して見ることのできなかった存在を、麟太郎に指し示した。


「俺は……」


 緋里が真っ黒な瞳を向けてくる。恐怖と期待の入り混じった、先ほどの麟太郎のような目で。

 麟太郎はどうにか緋里から目を逸らさないでいられた。


「俺は……武士だ」


 驚いたように緋里が目を見開き、次いで艶やかに笑った。


「知っていたでありんす。――初めから」


 麟太郎と緋里がにやりと笑みを深めたところで、全身ズタボロになった捨助が憤怒の表情で飛び込んできた。


「この野郎! こっちが死に物狂いで戦ってるときに、何してやがるおまえら!」


 離れろと怒鳴りながら、捨助が麟太郎と緋里の間にずいと体を割り込ませた。

 その拍子に緋里が後ろによろめき、慌てて捨助が血みどろの手で、緋里の体を支えた。


「あ、こら! 着物が汚れるではありんせんか」


「いまさらそんなこと言ってる場合か!」


 非日常な江戸の町中でいつもと変わらない会話を繰り広げる二人に苦笑を漏らしつつ、麟太郎は刃こぼれだらけの愛刀を握りしめた。


 まだやるべきことがあった。

 麟太郎を武士と信じて伊右衛門が託した約束。

 そして麟太郎が信じてきた武士としてのけじめ。

 江戸の終末を望む輝貞との決着。江戸の悪夢を断ち、未来をつなぐ一騎打ち。


 何も言わずに立ち去ろうとした麟太郎を、緋里が目ざとく見つける。


「麟太郎。ぬしを武士にはさせないでありんすえ」


 足を止めた麟太郎の背中に、捨助が追い打ちをかける。


「ああ、そうだ。おまえを武士にしてたまるか。……おまえは一生、花魁護衛になり損ねた見習いで十分だ」


 麟太郎は振り返らないまま答えた。二人を見れば、足がすくみそうだった。

 本懐を遂げて見事に死ぬ武士になることは許さない。


 だから死ぬな、と――。


 二人はそう言っていた。


「わかってる。……わかってるさ」


 言って、駆けだす。ふらつく足を叱咤しったし、なんとか走る。

 すべての破壊を夢見る、醒めぬ悪夢にうなされ続けてきた次期藩主の元へ。

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