第25話 ほどけぬ憎悪

 輝貞が指定してきた場所は、江戸郊外にある茶店だった。往来の少ない道で、妖かしの影に怯えながら走る飛脚ひきゃく以外、道行く者がいない。まるで江戸を去るような気持ちで、町に背を向けてひたすら歩いた。


 茶店はすぐに見つかった。客など滅多に来ないだろう茶店に、どう見ても客ではない武士たちが何人も集まっているのである。嫌でも目立つ。

 武士たちは辺りを警戒するように、殺気をまき散らして立っている。


 まるでどこぞの大名のようだと思い、これから会う人物が次期藩主だったことを思い出す。

 厳つい武士たちの中心では、場違いなほどゆるりとした佇まいの輝貞が、赤い腰かけに座っていた。


 麟太郎が近づいていくと、輝貞は口端でふっと笑った。


「来たか」


「ああ」


 麟太郎が輝貞の隣の腰かけに座ろうとすると、輝貞が正面の腰かけを指さした。


「ここに座れ」


 仕方なく下ろしかけた腰を上げ、輝貞の正面に座る。この距離と場所では咄嗟に刀が抜けない。もっともこれほどの数の武士に囲まれては、どこに座ろうとも死角はできる。大した違いはなかったが。


「こやつらなら気にすることはない。要らぬと言ってもついてくるから、連れてるだけだ」


「ああ、そうかい」


 麟太郎は、ふと周囲に視線を配った。


「あの男はいないのか?」


「あの男? ああ、伊右衛門のことか。伊右衛門ならすぐそこの下屋敷にいる」


 輝貞があごで示した方向に、どうやら橘藩の下屋敷があるらしい。とすればこの茶店がつぶれないのもわかる。橘藩お抱えのようなものなのだろう。

 店主と思しき男が、お盆に茶を乗せてやってくる。


「いや、俺はいらない」


 輝貞が馬鹿にしたように笑う。


「毒でも入っていると思うのか。しばらく会わないうちにずいぶんと肝が縮んだようだ」


「そいつは買被りってもんだ。俺は昔から用心深い質なんだ」


「ほう、そうだったか。以前のおまえに宿っていた鋭い光はどこに消えた?」


 問われ、一瞬意味を受け取り損ねた。


「……俺が丸くなったとでも言いたいのか?」


 質問に質問で返した麟太郎の言葉には答えず、輝貞は店主に茶の追加を注文する。

 店主がかしこまって店の奥まで下がったのを見届けてから、輝貞はおもむろに麟太郎へと向き直った。


「俺のもとに戻れ、麟太郎。おまえのことは気に入っている」


 輝貞の声が思いのほか真に聞こえて、麟太郎は驚いた。便利だと思われていたとしても、気に入られているとは思っていなかった。

 麟太郎の表情を読んだのか、輝貞はさも面白そうに口端を歪めた。


「ずいぶんと意外そうだな」


「まあ、な。次期藩主に気に入られてりゃ、そりゃ悪い気はしねえさ。でも――」


 輝貞の眉がぴくりと動く。


「でも――?」


 問い返す輝貞の声が、地の底から響いてくるように低くなる。

 麟太郎は、ぐっと腹の下に力を込めた。


「俺は密偵をおりる」


 しん――と場が静まり返った。


 これだけの人数がいるとは思えないほど、全員の気配が消えていた。否、一つの気配に消し飛ばされていた。輝貞の放つ氷のようなむき出しの殺気。輝貞の周りの温度がみるみる下がっていく。空気が凍り付いていく音が聞こえそうなほどである。


「――花魁を守るつもりか?」


 輝貞の視線に捕まった。

 ぞくり、と背筋が震えた。一瞬で全身の毛が逆立つ。輝貞から目が離せなかった。一瞬でも離したら、相手の牙が喉元に食らいついてくる気がした。


「花魁の側に立つ気か? 不浄な女どもを守りたいとぬかすのか」


 これでも精一杯押し殺しているというような、ギラついた声から底知れない憎悪を感じた。

 輝貞は本気で花魁を憎んでいる。武士の世のために吉原を排除するのではない。花魁そのものを蹂躙じゅうりんし、殲滅せんめつさせたいのだ。


「あんたは……本当に花魁が憎いんだな」


 麟太郎がそう口に出すと、輝貞の目にたぎるような、どす黒い炎が宿った。


「ああ、そうだ! 俺は花魁が憎い。不浄に身をさらし、着飾った内側におぞましさを隠した奴らが、身がちぎれるほどにな。そんな奴らが集まり、群れを成した吉原などは不浄の塊だ。その名を口にするだけで反吐が出そうだ」


「あんたがどうしてそこまで花魁を憎んでるのかは知らねえが、俺はあんたとは違う。花魁が不浄だって思ってたのも、武士になりたかったからだ。あんたはいったい俺のどこを見込んだんだ? 俺はあんたみたいに」


 そのとき、頬に鋭い痛みが走った。ガチャンッ、と何かが割れる音が、麟太郎の足元で響く。

 反射的に頬に手をやると、ぬるりと滑った。一筋の血が出ていた。

 輝貞が麟太郎に湯呑を投げつけたのだ。


「黙れ!」


 輝貞の一喝が、冬の張りつめた空気を切り裂いた。


「おまえが花魁を守るというなら、おまえもまとめて始末するだけだ! だが、いいか。おまえは殺さない。俺が送り付けた大門の土産は見ただろう。吉原の花魁を残らず、あれ以上にむごく殺してやる。おまえが守りたがっている花魁は最後だ。おまえの前で、犯して殺してやる!」


 輝貞の血走った眼には狂気がほとばしっていた。


「やめろ! そんなことさせるか!」


「おまえに何ができる。武士でもない、力もない。ただの花魁護衛の分際で何ができる!」


 ぐっと詰まった。

 輝貞の口から愉悦ゆえつに満ちた笑いが漏れる。


「ふっ、はははは! いい顔だ。花魁が死ぬときの顔にそっくりだ。あれはたまらんな。己の無力に打ち震えながら、俺をにらむあの顔。最高に興奮する。初めは生意気な口を利いてた花魁が、泣き喚きながら命乞いをし、それも無駄だとわかると、本性丸出しで罵り始める。そうしてじわじわ弱って、最期は屈辱にまみれた顔で死んでいくんだ」


 そう語る輝貞はとっくに気が触れた者の顔だった。整った容姿はひどくみにくく歪んでいた。


「腐ってやがる……」


 心底そう思った。途方もない虚脱感きょだつかんに襲われた。


「俺が腐っていたとしても、もっと腐ったものが花魁だ。あれこそ浄化せねばならん。――いま一度言おう。戻ってこい、麟太郎。俺がおまえを武士にしてやる」


 麟太郎は耳を疑った。これほど噛み合っていない会話もない。


「……冗談じゃねえ。おまえに武士にしてもらうくらいなら、俺は花魁護衛を選ぶぜ」


 輝貞の額に青筋が立った。憤怒の表情でいながら、ぴくぴくと震えている口は歪な笑みを浮かべている。まるで般若はんにゃのような壮絶な形相だった。


「そうか。ならば、不浄女どもが地獄を見るだけだ」


「や、やめろ。それだけは……」


 輝貞がやるといえば、それはすぐに現実となる。麟太郎が密偵を引き受けたばかりに、吉原は苦境に陥り、今度もまた密偵を断ったばかりに、花魁たちが酷い目に遭うのだ。

 すべては麟太郎がいた種だった。そのくせ止める力はない。


「花魁どもに死を――」


 輝貞が声高に叫んだ、そのときだった。茶店周辺の繁みが揺れ、辺り一帯が黒いもやで覆われた。見覚えのある靄だった。身を切るような寒風に乗って、生臭い臭いが漂い始める。


「あ、妖かしッ――」


 武士の一人が声を上げて抜刀する。その場にいた武士たちが一斉にならう。

 突如、現れた妖かしの数は尋常ではなかった。以前、緋里と竹林で浄化したとき以上の数の妖かしが茶店の周りに集まってきていた。


「ど、どうしてこんな数が……」


 麟太郎も抜刀しながら、呆気にとられる。一所に現れる数にしては多すぎる。さすがにこんな数を見たのは初めてだった。


 橘藩の武士たちが輝貞を守るように陣形を作る。必死になって輝貞を守ろうとする彼らの目に迷いはなかった。あれほど狂ったような輝貞の一面を知りつつも守ろうとするのは、彼らが主君を守ることをほまれとする武士だからなのか、花魁の殲滅が武士の世のためと信じているからなのか、麟太郎にはわからなかった。


 次から次へとあふれ出してくる妖かしの勢いは、衰える気配がない。そればかりか、まるで餌に群がる野犬のように、どこからともなく集まってきているようだった。


「くそっ、道理で人通りが少ないわけだ」


 この街道には妖かしが多いのだろう。故に旅人も町人も通らない。急ぎの用がある飛脚だけが嫌々ながらも通るだけなのだ。


「よくもまあこんなところの屋敷に住んでるもんだっ!」


 麟太郎は悪態をつきながら、目の前に迫った妖かしを斬り倒した。

 輝貞がやたら家臣を連れているのは、妖かしを警戒してのことだったらしい。これほど妖かしが現れるところに次期藩主だけを行かせる藩はない。


 当の輝貞も一応は刀を抜いてはいるが、その刃にはまだ血がついていない。家臣の武士たちがそれだけ健闘しているのだ。橘藩の武士たちは決して弱いわけではないが、いくらなんでも多勢に無勢。徐々に押され始めていた。

 このままでは麟太郎も輝貞と一緒にあの世生きである。


 しかしここで輝貞が死ねば、黒羽織党はその求心力を一気に失うだろう。そうすれば吉原が生き残る道も出てくる。

 麟太郎はさり気なく輝貞たちから距離を取り始めた。いつもと違って守るべき花魁がいなければ、これぐらいの突破はそう難しくない。

 適度な距離が開いたところで、麟太郎は妖かしに背を向けて、一気に走り出した。


「麟太郎おぉ!」


 その背中に、輝貞の憎悪に満ちた声が届く。思わず足が止まりそうになった。妖かしの方がよっぽどマシに思えるほど、禍々まがまがしい声だった。


「待っていろ! 俺が地獄を見せてやる! おまえにも花魁どもにも。待っていろぉ――ッ」


 麟太郎は前に踏み出す足に力を込めた。もっと早く。もっと、もっと。

 そうしないと、輝貞の憎悪に絡みつかれて逃げ出せなくなりそうな気がした。

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