第24話 報復
その日は朝から細雪がちらついていた。
足元にうっすらと積もった雪の上に、
麟太郎は背中を丸めて江戸の町を歩いていた。ちらちらと舞う雪が頭や肩に落ちては、ふっと消えていく。ひときわ強い寒風が吹き、麟太郎は体を震わせた。
山谷堀の船宿に行った帰りである。今日が緋里の情報を持っていく約束の日だった。
麟太郎が情報はないと告げると、男の雰囲気は途端に
麟太郎は口を
頭の奥がしびれたように麻痺していた。
これでもう武士にはなれない。後悔はないかと聞かれたら、即座に否と返すだろう。だがそれは、緋里の情報を渡した場合でも同じだった。どちらにせよ後悔することになる。
それに後悔でいっぱいのはずの胸の内は、なぜか清々としていた。こんな気分は久方ぶりだった。
気づけば雪は降り止み、
「今日は晴れるか」
ぼんやりと呟きながら、渡りかけの橋の途中で立ち止って空を見上げる。
そんな麟太郎を橋のたもとからじっと見つめる者がいた。捨助である。食い入るように見つめる捨助の目には、疑惑の色にじわりと滲んでいた。
麟太郎が密偵としての任務を放棄して十日が過ぎた。
麟太郎の裏切りはとっくに輝貞には伝わっているはずだが、あれから何の音沙汰もなく、気味が悪いくらい静かな日々が続いていた。
相変わらず妖かしの数は多く、花魁たちが疎まれながらも浄化に奔走するのは変わらなかったが、少し前のように浄化に向かった花魁が惨殺されていることはなくなっていた。
源平派の暴走もようやく鎮火したかと吉原の誰もが安堵のため息をついていたが、一人、麟太郎だけはこの静けさに言い知れない不安を感じていた。
このままで済むはずがないのだ。
輝貞は麟太郎という密偵を失ったからといって攻め手に欠くような無能でもなければ、飼い犬に手を噛まれて許すほど
絶対に何か仕掛けてくる。
そして麟太郎の予感は的中した。
刻は明け六ツ。大門を開ける時刻である。
「大門に花魁の死体が吊るされてるぞ!」
その報せは瞬く間に吉原中を駆け巡った。
まだ寝床の中にいた麟太郎は見世に駆け込んできた報せに跳ね起きた。すぐさま刀を引っ掴んで、階段を駆け下りる。その足で妓楼を飛び出し、大門まで一直線に走る。朝の張りつめた空気が、ぴしぴしと顔に突き刺さる。
大門の前にはすでに人だかりができており、その間からちらちらと吊るされている人の姿が見えた。一人ではない。二人が並んでぶらりと吊るされている。どちらも裸にされているらしく、遠目からでは男だか女だかもわからない。
心の臓が跳ね、呼吸が上がる。口の中が粘ついた。息を吸う度に冷気が胸の奥まで入り、鈍い痛みが広がる。
人ごみの壁にぶつかり、麟太郎は速度を緩めて近づいた。みな一様に顔が青ざめている。
酷い惨状であることは見るまでもなく容易に想像がついた。辺りには濃い血臭が漂っており、前方にいた者が口元を袖で覆って戻ってくる。
引き返してくる者たちと入れ違うようにして、麟太郎は前に出た。
言葉を失う。
むごい。その一言に尽きた。
二人の花魁は首に巻き付けられた縄で大門の
裸にされ、なます切りにされた全身からはまだ血がポタポタと滴っていた。地面にできた血だまりに細長い何かがころころと転がっており、よく見ればそれは切り落とされた二人の小指であった。かつての花魁がしていたという指切りになぞらえたつもりなのだろう。
髪は切り落とされ、身にまとっていたはずの
吐き気がした。
明らかに麟太郎へ当て付けたものだった。
――黒羽織党を裏切ればどうなるか。その目に刻み込め。
麟太郎が密偵の任務を拒み続ければ、吉原中の花魁が同じ目に遭う。麟太郎が密偵を続ければ花魁たちの惨殺は免れるが、吉原全体はじわじわと絞め殺されていく。
どう転んでも吉原は滅ぶ。すべては黒羽織党の、輝貞の筋書き通りである。おそらくは麟太郎が密偵として吉原に忍び込めた時点で、輝貞の目論見は結実したも同然だったのだろう。
そして花魁の死体が大門に吊るされた翌日、麟太郎の元に輝貞からの呼び出しがかかった。
いつもの男ではなく、別の者が客に成りすましてやってきた。
来るだろうと覚悟はしていた。
出かけてくる旨を緋里に伝えようとしたが、あいにく風呂に入っていた。仕方なく捨助に伝言を頼み、麟太郎は指定された場所に出かけた。
最悪の場合、生きて帰れない可能性もある。せめて直接会っていきたかったが、いまさら言っても詮無いことだった。
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