第23話 枯れゆくもの
麟太郎が妓楼に戻ってくると、ちょうど花魁たちが夜見世の準備をしているところだった。来る客はほとんどいないが、それでも花魁たちは刻限になると、ぞろぞろと張見世に出てくる。以前と変わらない日常を送ることが、彼女たちの精一杯の抗議のようにも思えた。
麟太郎は張見世の横を通り過ぎようとして、中央に座しているはずの緋里がいないことに気がついた。緋里が夜見世に遅れるなんて珍しい。準備に手間取ったのかと思いつつ、妓楼の中に入ると、ちょうど緋里が階段を下りてくるところだった。
すべてにおいて花魁が優先。麟太郎は緋里が下りてくるまで階下で待つ。
階段を下り切った緋里が麟太郎の横をすり抜けていく。
ふと、その顔が気になった。化粧で整えられてはいるが、どこか精彩がない。張見世の方に歩いて行く足取りもやや覚束ず、ゆっくり歩いているというよりは、ふらついているように見えた。
「緋里」
思わず呼びかけた。
緋里がゆるりと振り返る。
「なんでありんすか?」
顔も声もいつも通りだった。
「あ、いや……。なんでもない」
気のせいか。そう思い階段を上がっていく。自分の部屋に戻り、万年床にごろりと横になる。
麟太郎は目を瞑った。考えることはうんざりするほどあったが、こうして横になってしまうと襲いくる睡魔には勝てない。麟太郎は抵抗するのを早々に諦め、あっさりと意識を手放した。
それからどのくらい眠ったのだろうか。
麟太郎は何かの気配を感じて目を覚ました。もう大引けの刻限も過ぎたらしい。辺りはすっかり静寂に包まれていた。
静けさに促されるように一度は覚醒した意識が、再びずるずると眠気に押し流されていく。
そのとき、声に似た何かが耳に忍び込んできた。
「う、うう……」
声。誰の。
半分寝ているような状態で、もやもやと考える。一度気がついてしまうと、妙に気になった。寝静まった妓楼のひっそりとした空気の中、声は隣の緋里の部屋から聞こえていた。
寝言かとも思ったが、耳を澄まして聞いていると、どうやらうなされているらしい。
しばらく様子を見てみるが、声はやまない。
麟太郎は布団の上で上半身を起こした。物音を立てないようにそろそろと移動し、緋里の部屋とを仕切る襖を細く開けてみる。
布団を深くかぶっているようで顔は見えないが、震えているのか、掛布団が小刻みに揺れていた。
「い、やぁあ……」
ひどく
麟太郎は思わず緋里の部屋へと足を入れていた。
灯りはとっくに消されていたが、障子の向こうから差し込む月明かりがかろうじて足元を照らしてくれる。
「緋里。おい、大丈夫か」
近づいて肩の辺りを軽く揺する。着物は汗でぐっしょりと濡れ、額には玉のような汗の粒が浮かんでいた。緋里の口から、うめき声にも似たか細い声が漏れ、何度か揺すったところでうっすらと
「りん、たろう……?」
ぼんやりと焦点の合わない目が麟太郎に向けられる。
「ひどくうなされてたぞ」
「……わっちが?」
「他に誰がいるんだよ」
そう言うと、緋里は困ったように顔を横に向けた。
「そうでありんすな」
「悪い夢でも見たのか」
緋里がちらりと麟太郎を見やる。
「ぬしが
「な……ッ」
顔がカッと熱くなった。一瞬、布団の中で寝乱れているしどけない
緋里が忍び笑いを漏らした。
「ぬしには刺激が強すぎんしたなあ」
ごそごそと緋里が身じろぎし、布団の上で体を起こす気配を耳だけでとらえ、麟太郎は目を閉じて呼吸を整えた。
「そんなこと言ってると、ほんとに襲うぞ。据え膳食わぬは男の恥――」
からかわれてばかりでは堪らない。たまには一泡吹かせてやろうと、手探りで緋里ににじり寄る。
ふいに緋里がくぐもった声を上げた。不審に思って緋里を見ると、口元を手で覆っている。どう見ても吐くのを堪えているようにしか見えない。
「お、おい」
丸められた背中に手を置きかけるが、他ならぬ緋里に手を払われた。あっちに行ってとばかりに、緋里が手で追い払う仕草をする。
緋里が苦しそうに傍らへと手を伸ばす。その先には小さな桶が置いてあった。
麟太郎は慌てて立ち上がり、桶を取って緋里の前へと差し出す。
「ほら!」
間一髪のところで緋里が桶に吐いた。片手で桶を支え、空いた手で背中をさすってやると、さすがに余裕がないらしく、今度は素直に受け入れられた。もともと
「す、すみんせ――」
緋里は謝ろうとして、また嘔吐した。
仄白い月明かりに照らされた緋里の顔色は、もはや蒼白を通り越して紙のように白い。腹にくる流行り病か、食あたりか。考えを巡らせていると、ふと何かが脳裏をよぎる。
行き着いた答えに、愕然となった。
花落ち――。
脳天を鐘つき棒で殴られたような衝撃がきた。
以前捨助から聞いた花落ちの知識が、
――花落ちには段階があるんだ。最初の頃は咳とか微熱とか、まあ風邪みたいな症状だ。で、中期になると悪夢、めまい、大量の発汗、あとは吐いたりするようになる。末期はおまえも見たあの花魁みたいに高熱に浮かされて、
ぞっとなった。背中をさする手が止まりそうになる。
まさか。まさか。必死になってその考えを打ち消そうとするが、そうすること自体が何よりの証拠になってしまっている。
何より麟太郎には思い当たる節がありすぎる。
緋里は麟太郎が初めて浄化をしたときにはもう花落ちに罹っていた。あれから花落ちらしい症状を見かけなかったから、てっきり進行が止まったのかと思っていた。
だが緋里が浄化に出る回数は尋常じゃない。ただでさえ多かったところに、小紫が襲撃されてからは周囲が止めるのも無視して、それこそ浄化に明け暮れていた。浄化すればするほど花魁は、妖かしの不浄を浴びる。いくら昼三花魁といえど、あれほど浄化に出て進行が止まったままなわけがない。
悪化していたのだ。
じわじわと、確実に緋里の命を削り取っていた。
瞼の裏にいつか見た、花落ちに冒された花魁の姿が浮かぶ。
遠くないうちに、緋里もああなるのか――?
かさり、と紙が擦れるような音がし、麟太郎は我に返った。
緋里が枕元から懐紙を取り出し、口元を拭っていた。
「緋里、おまえ……」
尋ねる声が震えた。口にするのも、答えを聞くのも怖かった。
緋里が気まずそうに視線を落とす。
「……もう落ち着きんした。世話をかけたでありんすな」
「おい」
「これ、捨ててきんすから」
そう言って桶を手に立ち上がろうとする緋里を強引に布団に押し戻した。
「……いつからだ?」
知らず、声に怒りがこもる。無性に怒鳴りつけてやりたかった。
緋里は苦々しい視線を麟太郎に向けてから、目を逸らした。
「見逃しては……くれんでありんすか?」
心底苦痛に満ちた声だった。知られたくなかった。顔にそうありありと書かれている。
その声を、顔を見た瞬間、麟太郎の中で何かが音を立てて弾けた。
「できるわけねえだろ!」
堪らず声を荒げた。こんな状態になってまで一分の隙も見せたくない、と肩ひじを張っている緋里に腹が立った。これだけ近くにいて、止めることだってできたかもしれないのに、気づけなかった自分にはもっと腹が立った。
「なんで言わなかった! どうしてこんなに悪くなるまで隠してんだ!」
麟太郎の剣幕に面食らったように緋里がたじろぐ。
「そ、それは……」
「具合悪いの隠して浄化しやがって。吐くってことは中期ってことだろ。もし俺にばれなかったら、そのまま浄化続ける気だったってことかよ!」
緋里が観念したように小さくため息をついた。
「……嫌、なんでありんす。誰かに気遣われるのも、気遣われている自分も」
「そんなこと言ってる場合かよ。放っておいたら……死ぬんだぞ!」
口の中がカラカラに乾いて、言葉がつっかえた。
緋里がスッと目を細め、どこか遠いところを見ているような目つきをした。
「花魁になった者は遅かれ早かれ、妖かしによって死ぬ。爪で裂かれて死ぬか、花落ちで死ぬかの違いでありんすよ」
緋里の声はどこまでも落ち着いていた。とっくに死を受け入れている者の声だった。武士が死を覚悟して斬り合うのとも似ているが、花魁のそれは達観の色が濃い。
緋里の冷静な様子が、麟太郎をより駆り立てる。
「じゃあ、なんだよ。妖かしの爪からは命がけで守らせるくせに、花落ちに罹って死ぬのは放っておけってか? え、そういうことかよ!」
勢いあまって、麟太郎は緋里の肩を掴んだ。
どうしてここまで熱くなっているのか、自分でもよくわからなかった。
「は、離して……」
緋里が痛そうに眉をしかめる。
「俺に……お前を見殺せっていうのか!」
ハッ、と緋里が目を瞠った。
幾重にも張り巡らされた囲いを破って、初めて麟太郎の声が聞こえたようだった。
緋里の顔がぐにゃりと歪む。眉が下がり、苦痛に耐えるように口を引き結ぶ。布団の上でぎゅっと握りしめられた手が小さく震えている。
「……りたい」
鼻声になった緋里の声が暗闇にこぼれる。
「え?」
「わっちは……最期まで花魁でありたい。江戸の人になんと言われても、江戸を守るのが花魁の役目。死ぬことがわかっていながら、浄化をするわっちら花魁は、ぬしから見れば愚かに見えるのかもしれんせんが、それでも――それが、花魁でありんす」
緋里の真っ直ぐな目には、うっすらと涙が溜まっていた。紛れもない緋里の本音だった。その本音を貫けるのが緋里の強さであり、周りに言えないのが緋里の弱さだった。
緋里の本音は残酷である。
何もするな。私が死に向かうのを黙って見ていてほしい、と、そう言っているのだ。
それは緋里を大切に思っている者ほど深く
麟太郎は目を見開いたまま、一言も発せなかった。
初めて、この緋里という花魁の
麟太郎は緋里の肩から手を離すと、思い切り畳に拳を打ち付けた。
緋里がびくりと肩をすくませた。
「……できねえよ。もうできねえよ――」
麟太郎は呻いた。きりきりと締め上げられるように胸の辺りに痛みが走った。
唐突に気づいてしまったのだ。
自分には緋里の情報を渡すなんてできないということに――。
愚かしいほど真っ直ぐに、花魁であろうとする緋里が妬ましかったということに――。
麟太郎にはないもの、持ち得なかったもの――命を懸けて貫けるもの――を持っている緋里や彼女たちが、羨ましくて妬ましくてしかたなかったのだ。
だから蔑んだ。蔑むことによって、掻きむしりたくなるような羨望を、やり過ごそうとした。
だが、緋里や花魁たちを知るにつれ、焦げ付きそうになることがあった。
いつだって武士を支柱にしてきた見方が、揺らいだのである。密偵としてどこか後ろ暗い道を歩く自分に対して、花魁がやけに眩しく見えて、それでも武士の身分を諦めきれずに、ここまできた。きてしまったのだ。
あと少し。あと少しで命を懸けられるもの、武士の身分に手が届く。
けれどもう無理だった。麟太郎に緋里は売れない。
いまも羨ましくて妬ましくてしょうがないのに、同時に眩しいのだ。
「ち、くしょう……っ」
握りしめた拳を睨みつけて喉の奥から声を絞り出す麟太郎を、緋里がじっと見つめていた。
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