第28話 逃走
こうして吉原を疾走するのは、何度目だろうか。
全力で足を動かしながら、ふとそんな考えがよぎる。だがそれもこれで終わりだ。このまま吉原を走り出れば、望むと望まざるともう二度とこの地に足を踏み入れることはない。
幸い昼見世が始まる前だった仲の町通りに、人はかなり少ない。鬼気迫る勢いで走る麟太郎に、何事かと振り返る者はいても、呼び止める者はいない。妓楼からの追手もまだ追いついてきてはいないようだった。
一足ごとに大門が近づく。真の意味で吉原からの解放だった。もう密偵でも花魁護衛でもない。待ち望んでいた瞬間のはずなのに、口から
「ちっ、くしょぉーッ!」
がむしゃらに、全速力で走る。まるでそうすればすべてを振り切れるとでもいうように。
大門を飛び出し、
どこでもいい。逃げ出せるならどこでよかった。どこまで走れば逃げられるのかわからないまま走り続け、激しい呼吸に
喉も胸も焼け付くようだったが、痛むに任せた。体のどこかが痛ければ痛いほど、頭の中で暴れ狂う嵐を追いやれるかと思った。
だが無駄だった。対処しきれないほどの激情の渦が、後から後から突き上げてくる。何を後悔すればいいのかわからないほどの深い
見ないふりで目を背けてきたものの
武士の志を真似て中身だけは一端の武士の気でいた。身分だけが足りないことを嘆き、武士の世のためという大義を振りかざして、身勝手を通そうとした。ほしいものを手に入れるために、己が正しいと思うことすら平然と曲げて来たのだ。己の行為がどれほど武士と遠いかには都合よく目を背けて。
だが形ばかり武士にこだわってきた麟太郎は、最後の最後で己の中身が武士でないことを突きつけられた。
自分勝手に散々吉原を引っ掻き回し、花魁たちを死に追いやりながら、自分だけは逃げ出してきたのだ。軽蔑されることを恐れ、己の生を惜しんで――。
己の責から逃げる者が武士であるわけがなかった。
身分も中身も武士ではない自分に残されたのは、密偵として積み上げた悪徳だけ。
膝に置いた手に力がこもる。喉の奥から呻き声が漏れた。鼻に痛みが走り、目の回りが熱くなった。膝を握りつぶさんばかりの強さで掴み、必死に声を押し殺す。
ほたっ、と地面に黒い染みができた。点、点と染みが数を増やしていく。堪えきれず、溢れた声はまるで獣が唸っているようだった。
――ああ、そうか。
こんなになっていながらそれでも武士になりたい。そう願っている自分がいた。
諦められないのだ、どうしても。だから逃げた。
そのことに気づき、麟太郎は
――あさましい。
どこまで卑怯になれば気が済むのか。激しい自己嫌悪で気が変になりそうだった。
いっそ狂ってしまえれば、どんなにいいか。
虚ろな目を上げてみれば、江戸の町が瞳に映った。
ひしめくように立ち並ぶ屋台。居酒屋に始まりてんぷらにイカ焼き、ニシンやおでん。江戸の食卓ともいうべき通りには、いつもの光景が広がっていた。辺りにはうまそうな匂いと湯気が立ち上っている。
しかし違うところもあった。
人が、いない。いつもあれだけ賑やかな道に、人っ子一人いないのだ。
「え……?」
真冬に冷水を浴びせられたような衝撃があった。
一気に頭が現実へと引き戻され、否が応にも冷静さを取り戻していく。
まるでその辺り一帯の人すべてが神隠しにでもあったかのように、からっぽなのだ。右を見ても左を見ても、誰もいない。
慌てて一番近くにあった店の戸を開いた。半ば予想していた通り、中には誰もいなかった。それだけではない。中はついさっきまで人がいた証のように、鍋が火にかけられ、中身が噴きこぼれていた。
「どういうことだよ……」
呆然としながら呟く。ひどく気味が悪い。子どもの頃に聞いた怪談話を思い出した。
片っ端から店を覗き込んでいくが、どこも同じ状態だった。人間だけがいない。生活していたところから、いきなり切り取られてしまったようだった。
「おーい、誰かいないのか!」
声が吸い込まれて、虚しく消えていく。答える声は当然のようにない。麟太郎以外が消えてしまった。
ふいに背筋がうすら寒くなった。殺気とも違う。人の気配ではない。何か別種の、もっとおぞましい何かの気配が、冬の乾いた空気の底にどろりと混じっている。
反射的に背後を振り返った。何もいない。閑散とした江戸の町が続いているだけだ。
再び視線を前へと戻した。人が溢れかえっている江戸から、一斉に人間が消えるなんてありえない。なぜかはわからないが、この辺りにはいなくてもきっとどこかにはいるはずだ。そう自分に言い聞かせながら、とりあえず歩き出す。
それにしても静かだった。掛け声一つ聞こえない。まるで真夜中のような不気味な静けさが漂っている。
昨夜に江戸で火事でも起きたのかと疑ってみるが、いくら吉原が江戸郊外にあるからといって、さすがに火事があれば気づく。だが他に江戸の人間が一度に移動する事態など思いつかなかった。
なんとなく刀から手を離す気になれず、いつでも抜ける状態のまま、ゆっくりと江戸の町へと歩いて行く。まさに狐に化かされた気分だった。
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