第10話 雑用と密偵
それからというもの緋里の言う
いまは麟太郎が質素極まりない
仕方なく
「じゃあ昨日の続きから。まず花魁には格がありんす。一番上が
「はあ」
気のない
「振袖花魁っていうのは花魁見習いで小紫のような者を言いんす。十五歳でありんすからまだ浄化はできんせんが……。あ、ちなみにわっちが十八歳で捨助が二十一歳。ぬしは? え、わっちと同い年でありんすか。年下かと思っていんした」
それができないならせめて時を選んでほしかった。かろうじて湯気が立っていた飯が、地味に冷めていくのがわかる。
「花魁護衛にも花魁持ち護衛と、妓楼囲い護衛がありんす。花魁持ち護衛はぬしのようにわっち専属。給金が高い分、危険も多く、より護衛の技量が必要になってくるでありんす。妓楼囲い護衛は附廻より下の花魁全てを護衛しんすな。
緋里の話が続く。麟太郎の腹が情けなさそうに、ぐうぅと鳴った。
「……なあ、食っていいか」
「朝餉がまだだったのでありんすか。どうぞ、食べなんし」
人の朝餉を邪魔したことにすら気づいていなかったらしい。やれやれとため息をついて、麟太郎は茶碗に手を伸ばす。
と、いきなりコンッと例の
「痛てッ。なにすんだよ!」
「なにじゃありんせん。食べるときは汁物からと決まっていんす」
「なんだそりゃあ。聞いたこともねえ。っていうか、普通は飯からだろ!」
緋里が信じられないというように大げさに目を見開く。
「ご飯から食べるなんて
「武士は飯からなんだよ。そんなとこまでいちいちやってられるか。馬鹿らしい」
麟太郎は乱暴に茶碗をひっつかむと、飯を掻き込んだ。
「ああっ!」
緋里が抗議の声を上げる。
「だああ! うるせえ!」
そのままがしがしと飯を口いっぱいに頬張り、汁物で流し込む。
「な、なんて
心底呆れかえった顔で緋里が呟く。
「へっ。ざまあみろ」
口の中のものを一気に飲み込み、にやりと笑ってみせる。清々した。
緋里が深いため息をつく。
「……ぬしがその気ならわっちにも考えがありんすえ」
緋里は切れ長の目を
翌日から麟太郎の生活は一変した。悪い方に、である。
「花魁護衛としてみっちり仕込んでやりんす!」
高らかにそう宣言した緋里は、言葉通りまるで容赦がなかった。
妓楼での作法や心構えの講義に加えて、雑用が下りてくるようになったのである。花魁護衛といっても常に護衛仕事があるわけではない。護衛がない日の主な仕事は、花魁に命じられる細々としたお使いである。花魁ご用達の
これまでは妓楼の中にいれさえすればよかったが、こうなっては外に出ざるを得ない。いよいよ他人から花魁護衛として見られることになるのだ。恥以外のなにものでもない。
屈辱に震える麟太郎に、緋里は勝ち誇った顔で、次々と雑用を言いつけてくる。明らかに麟太郎の弱みに付け込んできている。
「くそ、とんでもねえ不浄女だ。心まで汚れきってやがる」
なるべく目立たないようこそこそと、最低限の会話で外での用事を済ます。そうして妓楼の外に出るようになってみれば、吉原の警戒心がいかに高いかを思い知ることとなった。
大門の面番所で出入りする者を見張るというのは序の口で、楼主同士、
幸か不幸か、麟太郎のことは緋里花魁に拾われた陰間として知られており、問い詰められることはなかったが、あんな手でも使わない限り吉原に源平派が潜り込むことなど至難の業だろう。そのまま陰間にならずに済んだのは、ただただ運が良かったからであり、普通なら陰間に堕ちて終いである。たとえ運よく潜り込めたとしても、花魁に
もっとも緋里が頻繁にお使いを命じるおかげで、密偵働きは大いにはかどった。道に迷ったふりをしながら吉原の詳細な地図を描きつけ、花魁護衛と思しき男に話しかけては
「おまえのところはいいよなあ。明石屋つったら、あの緋里花魁がいるところだろ。ありゃ
「うちの楼主、どうやら米問屋の吉田の若旦那とつながってるらしくてな」
「丸屋って知ってるか? あそこの八重花魁、花魁護衛が
他愛ない雑談から妓楼の規模を推し測り、吉原に金を流している商人を割り出し、花魁たちの弱みを掴む。そうしてがむしゃらに集めた情報は、
日頃の屈辱を晴らすように、今日も今日とて密偵業に精を出していた麟太郎は、額から流れ落ちていく汗を手の甲で拭った。
連日うんざりするほどの晴天が続いていた。夏真っ盛りである。わずかな涼を求め、妓楼の北側に来てみたもののやはり暑いものは暑い。
昼八ツの刻限、どの妓楼も昼見世はやっているが、夜に比べれば静かなものである。ぶらぶらとほっつき、ひっそりとした廊下の突き当り、北側の部屋の前に来たところで足を止めた。
部屋の中から人の気配がした。それ自体は別に気にするほどではなかったが、気配と一緒に妙な呻き声のようなものが聞こえたのである。耳に残る、湿った嫌な声であった。
麟太郎は閉じられた
「そこで何してんだ」
開けようとした瞬間、とげとげしい声が響いた。
「うわっ。なんだよ、おどかすなよ」
「へっ。小便ちびっちまったか」
捨助はそう言って擦れた笑いを浮かべた。つくづく世間擦れした顔である。鋭い奥二重の目には始終疑い深そうな光が宿り、口元は皮肉っぽく歪められている。着流しに
捨助は麟太郎を毛嫌いしていたが、それは麟太郎も同様である。己の力量も考えず見境なく抜くところがたまらなく嫌だった。
「緋里がおまえを探してんだ。さっさと来い」
捨助は麟太郎の腕を取って、強引に引っ張ろうとする。
気安く触られたことに鳥肌が立つ。武士であれば道で鞘同士がぶつかっただけで喧嘩になることもあるほどだ。こういう
「おい引っ張んな!」
麟太郎は乱暴に手を振り払った。捨助が色めき立つ。
「なにしやがんだ!」
「俺はおまえみたいな根っからの落ちぶれ野郎とは違うんだ。気安く触るな」
捨助が鼻で笑う。
「何が違う? 聞けば陰間茶屋に売り飛ばされそうになったところを、緋里に助けられたって話じゃねえか。緋里も相当の物好きだが、花魁に買われて、妓楼に買われて、おめえの方がよっぽど落ちぶれてんだろうが」
ぐっと喉が鳴った。怒りと屈辱のあまり言葉が出ない。
「……いますぐ俺の前から消えろ」
なんとか声を絞り出す。ありったけの怒気を込めた声は、なぜか裏返って情けないほど弱々しかった。
「お、なんだ。やろうってのか。いいぜ。抜きたきゃ抜けよ。ただし、俺は抜かねえぞ」
やけにきっぱりと捨助が言う。
張見世の前で初めて会ったときはあれほどあっさり抜いたくせに。
怖気づいたか腰抜けめ。麟太郎が内心で毒づいていると、まるで仇でも見るような鋭い視線で、捨助が麟太郎をひたと睨み据えていた。
「――俺は武士が死ぬほど嫌いだ」
突き放すように冷たく、落ち着いた声。まるで宣言だった。俺はおまえを認めない、と。
麟太郎は返す言葉も忘れ、捨助を見た。
しかし捨助はさっと視線を逸らし、階段を上っていってしまう。
仕方なく麟太郎も後に続いた。
妓楼の二階は階段を上ったすぐのところに遣手の部屋があり、四方に通じた廊下には花魁の部屋や
廊下を少し進んだところで、捨助がぴたりと足を止めた。廊下に生活臭溢れる匂いとは明らかに違う香りが、ほんのりと薫っていた。
「なんだ、この匂い……」
咲き始めたばかりの桜のように優しく、ふわりと鼻孔をくすぐる香の匂い。
「……こっからは一人でいけ」
捨助が仏頂面で言う。
ここまで来ておいていきなりそんなことを言う捨助に、若干の不審を抱きつつ、麟太郎は緋里の部屋の
「あ……」
「えっ……」
次の瞬間。妓楼中の障子を破らんばかりの絶叫が響き渡った。
「いッ、やああ――――ッ! このッ……
「ち、違う! 断じて違ぁうッ!」
麟太郎は両手をぶんぶんと振った。視線は緋里に釘づけのまま――。
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