第二章 花魁と武士

第9話 妓楼生活

「どうしてこんなことに……」


 麟太郎は何度目か知れない嘆きをこぼした。

 妓楼の二階に部屋をあてがわれ、麟太郎が花魁護衛となったのは昨日のことだ。

 花魁護衛は文字通り、花魁を守るのが仕事である。花魁は妖かしを浄化することができるが、体は生身の人間。妖かしの爪に切り裂かれればひとたまりもない。道中や浄化の最中に身を守ってくれる者が必要なのである。


 妓楼としても大切な商品である花魁がやられれば、その損害は計り知れない。大見世になればなるほど花魁の価値も上がり、当然少しでも腕の良い護衛を欲するようになる。

 吉原において目立つのはいつだって浄化力と美貌びぼうに優れた花魁だが、その実、いかに腕の立つ花魁護衛を雇っているかが妓楼の明暗を分けるのだ。


 麟太郎は昨晩、すべてが夢であってくれと願って、薄っぺらい布団で眠った。だが目を覚ましてみれば、悪夢のような現実があるだけ。一瞬で絶望のふちに叩き落とされた。

 広間で他の花魁護衛や禿かむろ朝餉あさげを取るにつけ、麟太郎の生きる気力は根こそぎ奪われた。


「おい、おめえの飯の方が二口ぐらい多くねえか」


「うわぁん。おゆきちゃんが、わっちの漬物盗ったあぁ」


 花魁護衛同士でせせこましい論争が繰り広げられているかと思えば、その隣では禿同志がおかずの取り合いで泣き出す始末である。

 いったい何が悲しくて、こんな奴らと肩を並べて朝餉を食べなければならないのか。

 麟太郎はげっそりとため息をついた。それでも久しぶりのまともな飯には心が躍る。

 吉原だろうと飯は飯だ。これは不浄じゃない。そう言い聞かせて、一口一口を噛みしめるように味わった。


 食べ終わってしまえばもうすることもない。ぶらぶらと妓楼をほっつき歩いてみるが、頭の中は我が身に降りかかった不幸への嘆きでいっぱいである。


「ちっ、何が大見世だ。やたら広いだけで中はその辺の長屋みてえなもんじゃねえか」


 外から見るとあれほど華美かびな妓楼だが、実際は恐ろしく所帯じみていた。一階には共同便所と内風呂、お針部屋が並び、奥まったところに楼主一家の居間が広がるそこに、華やかさの欠片もない。

 げんなりしながらあてどなく歩き、ちょうど内風呂の近くにさしかかった辺りで、女たちのはしゃいだ嬌声きょうせいが聞こえてきた。

 反射的に眉が寄る。花魁など見たくもない。

 だが麟太郎の願いもむなしく、入浴を終えた花魁たちと行きあたった。


「あぁ、良い湯だったわぁ。ほんと生き返りんすなあ」


「ねー。でも暑くて暑くて」


 そう言って一人の花魁がだらしなくえりを開き、中にぱたぱたと風を送り込み始める。麟太郎のところからは胸が丸見えである。見たくもないものを見せられ、心が粟立あわだつような激しい嫌悪が浮かぶ。


「それより昨日の緋里姐さん、いきでありんしたなぁ。わっちは惚れ惚れしんした」


 一人が水を向けると、他の二人が待ってましたとばかりに食いつく。


「ほんとほんと。その男、わっちが買うでありんす、なんて。わっちも言ってみたいわあ」


「でも、あの男、どこの馬の骨とも知れん男なんでありんしょう。あんなの連れ込んじまって大丈夫なのかねえ」


 花魁たちは話に夢中で、当の本人がそこにいることなど気づきもしない。

 どこの馬の骨どころか源平派げんぺいはだ。ざまあみろ。胸の内でそう毒づき、はたと気づく。


 吉原の密偵――。


 将棋倒しょうぎだおしのような不幸の連続ですっかり忘れていたが、麟太郎には輝貞との約束があった。不幸中の幸いと言うべきか、断りを入れる前だったから、まだあの話は有効なはずである。それどころか輝貞からは麟太郎が上手く吉原に潜入したようにしか見えないだろう。


 これは天命。いつも麟太郎のところを素通りしていたツキがようやく回ってきたらしい。

 にわかに湧き上がってきた希望に、目の前が開けていく気がした。


 だが通路はそうはいかない。妓楼の廊下は狭く、人ひとりがなんとかすれ違えるほどしかない。花魁護衛の特権として妓楼内でも帯刀たいとうをしている麟太郎は、武士の倣いならに従って左側通行をしていた。お互いの刀がぶつかって余計ないざこざを起こさないための当然の作法である。

 三人並んだ花魁たちは、右側一列になって通っていくものだと思っていた。

 が、花魁たちは麟太郎の前でぴたりと止まると、露骨に不機嫌そうな顔をした。


「ちょっと、どきなんし」


 高飛車たかびしゃな命令口調に、かちんときた。


「なんで俺がどかなきゃいけないんだ。そっちがよければいいだろ」


「はあ? ぬしは花魁護衛でありんしょう? なあんでわっちら花魁が道を譲らなければいけないでありんすか」


 麟太郎は唖然あぜんとなった。


「……冗談だろ?」


「いいからさっさと道を空けなんし」


 花魁の一人が邪魔そうに手で払う仕草をする。まるで犬の扱いである。

 瞬間、頭に血が上った。強引に道を空けさせようと花魁に手を伸ばしたときである。

 コォーン、と頭頂部に衝撃がきた。小さいが固くて結構痛い。


「誰だよ!」


 振り向くと、呆れた顔の緋里が煙管きせるを手に立っていた。どうやらそれで叩いたらしい。


「なにやってるでありんすか。早く道を空けなんし」


 緋里の登場に花魁たちが驚いたように、あたふたし始める。


「え、姐さん。も、もしかしてこの男が昨日の……?」


「ああ。おやじさんに押しつけられちまった。まだしつけができてなくてね」


 どこまでも人を犬のように話す。


「おい、ふざけんなよ。人をぶっ叩いた挙句、犬っころみたいに言いやがって。ただですむと思ってんのか」


 緋里が涼しげな目で見上げてくる。


「ぬしこそわかっていないようでありんすなあ。ここでは花魁がいっとう偉いのえ。ぬしら花魁護衛はわっちらの下僕げぼく。それから花魁は左側を歩くのが作法。廊下ですれ違うときは男がよける。覚えておきなんし」


「ふ、ふざけんなよ……」


 はらわたが煮えくり返りそうだった。花魁たちと同じところで寝起きするだけでも我慢ならないというのに、その上、常に花魁を立てなければいけないなど到底許容できない。


「姐さんになんて口の利き方! 姐さんは昼三花魁。吉原でも数えるほどしかいない最高位の花魁でありんすよ!」


「昼三だか、夜三だか知らねえが、俺は花魁の言いなりなんざ真っ平御免まっぴらごめんなんだよ!」


 そう言い捨てて、きびすを返そうとしたときだった。

 緋里がふっと鼻で笑った。


「ほお。よく言いんした。どうやらぬしは陰間かげまになりたかったと見える」


 ぎくり、と体が強張る。


「な、なんだと……」


 緋里はふいに近づいてくると、麟太郎の真下から手を伸ばしてきた。緋里の細くて長い指が麟太郎の顎先あごさきをつーっと撫でる。その仕草はぞくりとするほど色っぽく煽情的せんじょうてきだった。男を手玉に取ることに慣れた者の手つきである。思わずごくりと喉が鳴った。


「ずいぶんと初心うぶな男でありんすなあ」


 緋里が妖艶ようえんな笑みを浮かべて見上げてくる。


「くそ、離せ」


 慌てて顔を横に背ける。


「確かにぬしは顔も悪くない。陰間になればさぞ可愛がってもらえるでありんしょう。では、おやじさんにはわっちから」


「ちょっ、ちょっと待て! それだけはやめてくれ!」


 慌てて引き止める。想像しただけで怖気おぞけが走る。

 緋里が勝ち誇った笑みを浮かべた。


「ぬしはわっちの花魁護衛。そうでありんしょう?」


 握りしめた拳がぶるぶると震える。この上ない屈辱だった。

 だが、それでも、武士の身分を手に入れるため――。


「……あぁ、そうだよ!」


 麟太郎が真の意味で花魁護衛に成り下がった瞬間であった。

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