第8話 花魁護衛
表の華やかさとは裏腹に、そこは意外なほど生活感に溢れた場所だった。
麟太郎は
「おっと、邪魔邪魔」
仕出し料理を運んでいる奉公人とぶつかりそうになる。
「こっちでありんす」
小紫が畳敷きの広間から手招きをしている。
裏向きの階段の周りを回り込むようにして小紫の元へと向かうと、先ほどの楼主と
麟太郎は囲炉裏を挟んで楼主たちの前に腰を下ろす。
遣手が露骨に顔をしかめ、袖で鼻を覆った。
「あー、嫌だ嫌だ。なんだいこの臭いは」
羞恥で顔が熱くなる。麟太郎が言い返すのを封じるように、楼主が一つ咳払いをした。
「それで、うちの見世の前でなにをやっていた」
「……大したことじゃねえさ」
「そんな言い訳が通ると思ってんのかい? ここは吉原だ。見たところ、浪人か
遣手がにやりと笑う。それが何を意味しているのかは、もう嫌というほどわかった。
「だ、だから、その……」
なんと言えば吉原から出られる。大いに不本意だが、緋里のおかげでせっかく自由の身となったのだ。いまは一刻も早く吉原から出たい。そして二度とこんな地獄に足を踏み入れたりするものか。麟太郎が必死になって頭を働かせていると、背後から衣擦れの音がした。
「その男はわっちが買いんした」
声に驚いて振り返れば、そこには
「緋里、あんたいまなんて言ったんだい!?」
遣手のどすの利いた声が響く。
「買った、と言いんした」
「買った? ハッ、買った! こんなボロ切れみたいな男を買ってどうするっていうんだ。ごく潰しにしかなりゃしない。犬っころでも拾ってきた方がまだましってもんさ」
「わっちがわっちの金をどう使おうが勝手でありんす」
緋里が取り澄ました顔で返す。
「ほお、生意気な口を利くじゃないか」
遣手が目を吊り上げたまま笑った。妖怪が笑ったかのような怖さがある。
女二人の底冷えするような
麟太郎がこのどさくさに紛れて逃げ出せないものかと企んでいると、こちらを真っ直ぐ見ていた楼主と目が合った。
「おまえさん、強いのか?」
ふとそんなことを問われ、麟太郎は思わず楼主の顔を見入った。
「……なんでそんなことを聞くんだ」
にわかに楼主に対する警戒心がわいた。ただの妓楼の親父かと思っていたが、どうもそれだけではないらしい。
「見たところ基本の所作は武家のもんだが、
「あんた、剣術やるのか?」
楼主は人の良さそうな顔で笑いながら、顔の前で手を振った。
「いやいや。そんな割の悪いことするもんか。商売柄、武士が客になることもある。嫌でも見る目が養われるというわけだ」
「なら、俺のこともその目で見ればいいだろ」
「そうか。それもそうだな」
楼主は一人そう納得すると、小紫が
「それより俺への用事はもう済んだだろ。出て行かせてもらう」
麟太郎がそう言うや、火花を散らしていた緋里と遣手が一斉に麟太郎を見た。
「さっさと行きなんし」
「冗談じゃないよ。緋里が払った金を置いて行ってもらおうか」
相反する主張の二人の声が重なり、やや遅れて楼主がぼそりと呟いた。
「緋里の金に上乗せして、わしが買った」
しん、と辺りが静まり返った。我関せず茶を入れる小紫の音だけが、厳かに響く。
不穏極まる沈黙から一番初めに立ち直ったのはやはり遣手であった。
「……なんだって?」
極太の青筋を立てる遣手の顔はまさに
「こいつは今日から緋里付の花魁護衛だ」
満足げに頷く楼主。
ごぉーん、とちょうど夜五ツの鐘が鳴る。
たっぷり間を置いて、麟太郎と緋里の悲鳴混じりの声が妓楼に響き渡った。
「はあ――!?」
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