第7話 花魁の張り

 張見世の中、あの花魁が一人立っていた。真っ直ぐな視線が麟太郎たちに向けられる。


「なんだよ」


 陰間茶屋かげまぢゃやの男がいかにも面倒くさそうに言った。

 花魁の紅に彩られた唇が開く。


「その男、わっちが買うでありんす」


 しん、と静まり返った。あれほどの喧騒けんそうが嘘のように全て消え、時が止まったような無音の空気に包まれた。誰もが言葉を失っていた。

 買う? ――俺を、買う?

 意味がわからず、視線を彷徨わせると陰間茶屋の男が目を白黒させていた。相当な衝撃があったらしい。それでも何とか立ち直ると、陰間茶屋の男は引きつった笑いを浮かべた。


「い、いや……はは、冗談だろ?」


「冗談ではありんせん。わっちが買いんす。――おいくらえ?」


 陰間茶屋の男の喉がぐっと鳴った。総籬そうまがきの中、まるでおりに閉じ込めたはずの獣に噛まれたような顔だった。対する花魁の顔は、おそらく誰に聞いても本気だと答えるだろう。


「悪いが、こいつは売れねえな。こっちも商売なんだ」


 陰間茶屋の男が底意地の悪い顔で笑った。値をつり上げる気なのか、はたまた麟太郎に陰間として金儲けの可能性を感じているのか。

 どちらにせよ当事者であるはずの麟太郎には、もはやことの成り行きを見守るしかない。緊張の連続を強いられていたせいで、妙に体中から力が抜けていた。


「へえ……」


 花魁の切れ長の目がすっと細められた。長いまつげと目じりに引いた紅が引き立ち、蠱惑的こわくてきな迫力が漂う。周囲の男たちからうっとりとため息が漏れた。


「このわっちの誘いを断るでありんすか。明石屋の緋里を敵に回すとは、良い度胸でありんすなあ」


 言って、緋里は哄笑わらった。異様なまでの高笑いが響く。それまで行儀よく座っていた獣が、突如として野生の本能を目覚めさせたような変化だった。

 陰間茶屋の男は度胆どぎもを抜かれたように呆気にとられていたが、狼狽えたように見世の看板を見上げた。


「明石屋……。緋里……」


 うわごとのように呟き、次いで視線を緋里に戻した。悄然しょうぜんとする陰間茶屋の男に追い打ちをかけるように、緋里が流し目を寄越す。


「まだ売れないと言いんすかえ?」


「わ、わかった。売ってやる」


 陰間茶屋の男がしどろもどろになりつつ、値段を言う。

 麟太郎からしたら目玉の飛び出るような金額である。それを緋里は返事一つで了承する。

 めまいがしそうだった。どうかしている。この男も、この花魁も。


「あ、おい。この縄、切ってくれ」


 すごすごと去ろうとしていた陰間茶屋の男に慌てて声を掛ける。陰間茶屋の男は無言で麟太郎の手を縛っていた縄を切ると、逃げるように小走りで消えていった。

 その背中を呆然と見送っていた麟太郎は、見物人たちがけていく気配で我に返った。


「な、なんで……?」


 独り言のように呟けば、優雅な仕草で座ろうとしていた緋里がゆるりと顔を上げた。


「借り」


「かり?」


「そう。これで借りは返したでありんす」


「借りってなんの……」


 言いつつ、思い当たった。緋里はあのときのことを言っているのだ。麟太郎が用心棒の職を失った原因。即ち花魁を斬り殺さなかったこと。

 ――だが、あれは。あのときは。


「……俺はおまえを殺そうとしたんだぞ」


「そうでありんしたな」


 緋里は平然とした様子で言う。


「なら、なんで借りになるんだ」


 ふっ、と緋里が口端に笑みを浮かべた。

 緋里は脇に置いてあった煙管きせるに手を伸ばすと、もったいぶるように長々と吸った。その仕草は嫌味なほど様になっていて、なぜか目が離せない。

 麟太郎がついぼんやりと眺めていると、緋里がふーっと煙を吹きかけてきた。


「ッ、ゲホッゲホっ。こ、このやろう何しやがんだ」


 慌てて顔の前を手で払っていると、周りにいた男たちから驚きと羨望の声が上がった。


「あの緋里花魁が……」


「な、なんて羨ましい!」


 麟太郎にはわけがわからない。煙を顔に吹きかけられることのどこが羨ましいんだ。


「冗談じゃねえ。ふざけやがって……ッ」


「おいおい。なに馬鹿なこと言っている。花魁が煙管で煙を吹きかけるのは、可愛がってくださいましって意味なんだぞ。あぁっ俺が代わりたい!」


 隣にいた男に言われ、麟太郎は頭に血が上るのを感じた。この不浄女、人を馬鹿にしてる。

 陰間にされそうになったところを助けてもらった手前、下手に出ていたが、こうも馬鹿にされて黙っていられるほど麟太郎は温厚な性格ではない。罵倒してやろうと緋里を睨めば、彼女は艶っぽい笑みを浮かべ、挑発するように目線だけで見上げてきた。


「言ったでありんしょう。ぬしには斬れんと」


「なっ……」


「あのとき、ぬしのおかげでわっちも無事に逃げることができんした。借りは借りでありんす。でもこれで借りは返しんした。さっさと吉原を出ていきなんし。ここはぬしのような浅葱裏あさぎうらの来るところではありんせん」


 そう言って緋里はカァンッと煙管の灰を叩き落とした。話はこれで終わりだというように。


「あ、浅葱裏だと……」


 浅葱裏が示す意味ぐらい麟太郎でも知っている。武士を野暮だと揶揄やゆしてわらう言葉である。


「こっちがおとなしくしてりゃ、吉原の不浄女が!」


 言った瞬間、緋里の目が静かな怒りに燃えた。


「……もう一度言ってみなんし。陰間の中でも最低級に落としてやりんす!」


「おうおう、やれるもんならやってみろってんだ。この吉原の中でしか生きられないおまえらと違って、俺は自由なんだ。追手が来る前に逃げてみせるさ」


 緋里が大きく目を見開いた。わずかな動揺がよぎったのもつかの間、刺し殺されそうなほど強い眼光が麟太郎を真っ直ぐ射抜いている。その瞳の強さに思わずたじろいだが、すぐさまありったけの嫌悪をこめて睨み返す。

 麟太郎と緋里が視線で無言の争いをしていると、騒ぎを聞きつけたのか、見世の中から一人の男が出て来た。あちこちがほつれた着流し姿で、すさみ擦れている、いかにも吉原の男といった風体である。


「おい、緋里。なにごと、だ……」


 男は面倒くさそうにこちらを見、麟太郎の姿を認めると、途端に剣呑けんのんな雰囲気になった。


「捨助。ぬしには関係ありんせん。引っ込んでいなんし」


「あるだろ! なんだよこいつ。おまえに因縁つけてきたんだろ。なら俺が!」


 言い終わるより早く、捨助と呼ばれた男は腰に差していた刀を抜き放つと、麟太郎目がけて斬りかかってきた。どこを狙っているかが一目瞭然の、恐ろしくわかりやすい太刀筋である。

 麟太郎は素早く隣に立っていた男の腰からさやごと刀を抜いた。と同時に鯉口こいぐちを切り、わずかに刀身をのぞかせる。

 キィンと金属がぶつかり合う音が響き、麟太郎の刀と捨助の刀が交差した。


「こいつ……」


 捨助が唸った。強引に力で押し切ろうとする。

 麟太郎は刀に込めていた力を抜き、身を横にひるがえした。受け止めていた麟太郎の刀を失った捨助が前のめりによろける。数歩つまずいたところでなんとか体勢を整え、憤怒の表情で麟太郎を振り返った。


「殺す! こいつ殺してやる!」


「いや……無理だろ」


 思わず本音が漏れた。

 弱い。圧倒的に弱い。仮にも大見世おおみせとされる妓楼にいる男がこの程度でいいのか、と真剣に疑問を覚えるほどに弱い。もし吉原にいる男衆がみんなこの程度なら、吉原を逃げ出すのもたやすいだろう。

 と、見世の中からぱたぱたと小さな足音が聞こえ、小さな人影が飛び出してきた。


「緋里姐さん」


 小柄な少女だった。身長が麟太郎の腰より少し上ぐらいまでしかない。控えめながら華やかな振袖、小さな頭には、しゃらしゃらとした飾りのついたかんざしを差している。歳はいくつぐらいなのだろう。ひどく幼げな面立ちなのに、まとう気配は驚くほど落ち着いている。


「小紫。おやじさんを」


 緋里が張見世の中から少女小紫に指示を出す。


「もう呼んできんした」


 小紫の言葉と同時に、見世の中から四十絡みの小太りの男と、それよりは少し若い痩せぎすの女が出てきた。この見世の楼主と遣手やりてのようである。男の方はやけに派手な柄の着物を着ており、女は着物こそ質素だが、どこか下品さがにじみ出ている。


「見世の前で騒がれちゃ迷惑だ。とにかくこっちに上がれ。話は奥で聞かせてもらおう」


 楼主はそれだけ言うと、さっさと引っ込んでしまった。

 まだ睨んでくる捨助の横を通り過ぎ、麟太郎は渋々暖簾のれんをくぐって妓楼の中に足を踏み入れた。

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