第5話 裏吉原
くらり、と視界が揺れた。
前を歩いている人たちの姿が二重に見え、頭がぐらぐらと前後左右に揺れている。まるで舟酔いだ。気分が悪い。こめかみのあたりに釘を打ち込まれたような痛みが断続的に続き、耳に入る
「腹が……」
麟太郎は呻くように呟いた。もう十日ほど、ほとんど何も食べていなかった。
輝貞に断りを入れるつもりで幾日も神社のお堂で過ごした。けれど待てど暮らせど、連絡は来ない。何一つ
麟太郎は残飯を求めてふらつく足取りで様々な商店が並ぶ通りを歩いていた。太陽が中天にのぼった昼飯時である。呼び込みの誘いに応じて、道を行く人が食べ物屋の店に消えていく。
それらの人を見送りながら、麟太郎は意識が希薄になっていくのを感じた。体はまだ動いている。道に倒れ込むほどやわな体ではない。だからこそまずい。
出汁のきいた
このままじゃまずい。
頭ではそうわかっているのに、足がひたすらに突き進む。もう視線は一点に釘づけになっていた。目指すはあの屋台。串刺しの天ぷら。一串だけでいい。いや一口でもいい。
次第に足が速くなっていく。早足から駆け足になり、どこにこんな力が残っていたのか、気づけば全速力で走っていた。もう天ぷらは目の前だ。すぐ、そこだ。
麟太郎は手を伸ばした。手が串をひっつかむ。
「あ、おい!」
屋台の店主の驚いたような声が聞こえる。もうそのときには走り出している。人の間をすり抜け、突き飛ばし、通りを駆け抜ける。
「待てぇーッ。この泥棒! 誰か、そいつを捕まえてくれ!」
背中で声を受けつつ、麟太郎は走った。走りながら天ぷらにかぶりつく。
「あっ熱ッ熱ッ。……うまい!」
口の中に天ぷらの旨みが一気に広がる。思わず舌を噛みそうになった。ほとんど丸飲みである。二口目を口にいれたときだった。
唐突に視界が回転した。何が起こったのかわからないまま、麟太郎は強かに地面に顔面を打ち付けた。激烈な痛みに意識が飛びかける。痛みだけが感覚を支配している間に、麟太郎の背中に重しが乗っかった。
「ぐうっ」
息が詰まる。あやうく天ぷらが逆流しそうになった。
「この食い逃げが!」
怒声が頭上から降る。手を後ろ手にひねり上げられ、麟太郎は悲鳴を上げた。
「痛てぇ! この、離しやがれ!」
じたばた暴れてみるが、びくともしない。
「ありがてえ。よく捕まえてくれた」
やっと追いついたらしい屋台の店主が息を切らせながら礼を言っている。
「なに、このくらい朝飯前だ」
のしかかっていた男が麟太郎の上からどく。もちろん手は拘束されたままである。
「ほら、立て」
男に勢いよく引っ張り上げられ、強引に立たされる。
「くそっ」
悪態をついた瞬間、鼻の奥から何かが、つーッと垂れてきた。鼻血がぽたぽたと垂れ、地面に赤い染みを作る。ついさっきまで天ぷらの味が広がっていた口の中も、血の味になってしまった。
「さて、どうしてやろうか」
屋台の店主が麟太郎の正面に立った。
麟太郎は、ペッ、と血を唾と一緒に吐き出した。
「奉行所に突き出すか?」
麟太郎の手を押さえている男が提案するが、屋台の店主は首を横に振った。
「いや……もっといいところがある」
そう言って、屋台の店主は意地の悪い顔でにやりと笑った。
連れていかれた先を見て、麟太郎は
周りの
「なんで……」
思わずそう漏らすと、屋台の店主が皮肉げに笑う。
「吉原にいるのが女だけだと思ったら大間違いだ」
どういう意味だ、そう訊く間もなく屋台の店主は麟太郎の腕を掴んで歩き出す。両手を後ろで縛られているせいで、引っ張られるままに歩くしかない。あれほど入りたくないと拒んだ大門をあっさりとくぐらされる。
麟太郎が通り過ぎる時、門の左手にある
吉原は奉行所の支配下にあるため、面番所と呼ばれる建物に、
「かご入りだ」
屋台の店主が片手を上げて言う。面番所の男が意味深に笑って頷いた。
「かご入り? いったいどこに連れてく気だ」
「あんたに似合いの場所さ」
そう言って笑う屋台の店主の顔が、
空はとっくに真っ暗だというのに、そこは無数の灯りに満ちていた。一定の間隔ごとに置かれた行灯が足元を明るく照らし、見世からこぼれる灯りは毒々しいほど眩い。暮六ツを過ぎた吉原では夜見世が始まり、これからが本番といった活気と賑わいに満ちていた。
江戸吉原。かつては男たちが女の体を求めてやってきた花街。
しかし今では妖かし退治を生業とする花魁たちが住み暮らし、男が妖かし退治の依頼をしに花魁を買いに来る場所である。周囲を高い黒板塀とお歯黒どぶに囲まれた隔絶されし不浄の地。
吉原の区画は長方形になっており、大門から
初めて入る吉原は、もはや別世界のようだった。とても同じ江戸とは思えない。
闇夜を払いのけるような眩しさも、辺りに漂う甘ったるい香の匂いも、すべてが凝縮したように濃密で、
「気持ち悪ぃ……」
酔ったような気分で呟けば、身なりの良い町人らしき男がすれ違い様に睨みかけ、麟太郎の姿を認めるなり、にやにやと気色悪く笑った。
仲の町通りには羽振りの良さそうな商人から垢抜けない田舎風情の者まで、様々な男たちが行きかっていた。道の両側にはぎっしりと茶屋が並び、入口に掛けられた
慣れた足取りで歩いていた屋台の店主が途中で何度か道を折れた。
そこは目抜き通りと比べると道幅も細く、少し行くとぱったりと人通りが途絶えた。明かりの数も減り、薄暗い中にぽつりぽつりと妓楼なのか、茶屋なのかわからない建物が続く。まるで長屋のような造りである。小さな間口で戸がいくつも連なり、どこもひどくボロボロだった。
「……なあ、どこに連れて行く気だ」
もはや嫌な予感しかしない。
と、屋台の店主が一軒の建物の前で立ち止った。
「ほら、ここだ。入れ」
半ば押し込まれるようにして中に入ると、二畳ほどの座敷に男が座っていた。
「なんだ、客か?」
男が
「いや、客じゃない。一人もらってほしい奴がいてな」
麟太郎の後ろから屋台の店主が言う。男の目つきがふいに鋭くなった。値踏みするように麟太郎を上から下まで眺め回す。
「ははあ、なかなかじゃねえか。この手の野郎を好む客は多いぞ。いくらだ?」
「金はいらん。俺の店で盗みを働いたんだ。好きにしてくれ」
「こりゃいい。いますぐ部屋をあてがおう」
屋台の店主と男がとんとん拍子に話を進めていく。麟太郎が口を挟む間もなく、二人は話を終え、屋台の店主がせいせいしたと言わんばかりの顔で部屋を出ていった。
残された麟太郎と男の目が合った。その瞬間、サーッと血の気が引いた。
ここがどういう場所か、もう訊くまでもない。いや、もっと早くに気づくべきだったのだ。男が吉原に連れてこられる意味を。人気のない道にある建物の意味を。
「う、嘘だろ……」
男が下卑た笑みを浮かべる。
「嘘じゃねえさ。――おまえは今日から
ぎゅっと心臓を握りつぶされた気がした。音が、視界が、ひどく遠く感じられ、現実感が乏しくなっていく。
陰間とは男娼、つまり色を売る男だ。花魁が色を売らなくなった後でも陰間はひっそりと残り、いまに続いていたのだが、源平派でそのことを知る者は少ない。せいぜい陰間という言葉と意味を知る程度である。
麟太郎にしてみれば、もはや怪談話が現実になったようなものだった。
「さてお前の部屋はと……いやその前に」
男の独り言で麟太郎は我に返った。男が部屋の奥のかまどから何かを取り出してくる。
「な、なにする気だ」
麟太郎はじりじりと後退った。
「
男が麟太郎の背後に回る。反射的に身を翻そうとしたが、後ろ手に縛られているせいで、あっさりと掴まれてしまった。
「や、やめろッ!」
悲鳴のような声が出た。動けば動くほど、男は掴む手に力を込めてくる。手のあたりにむっと熱気が近づくのがわかった。
「うわああああッ!」
麟太郎は無茶苦茶に暴れた。狂ったように激しく体を捩り、頭を仰け反らしたときだった。運悪く男の頭に、麟太郎の後頭部が直撃したらしい。男から低い呻き声が上がり、掴まれていた手が一瞬緩んだ。
咄嗟に男の手を払いのけ、麟太郎は弾かれたように部屋の外に飛び出した。
無我夢中で道を走った。手は縛られたままだったが、足は動く。全速力で暗い道を走り抜ける。いまにも男が追いかけてきて、手を掴まれる気がした。
明るい道に出てからは何度も人にぶつかった。その度に足に力を込めて突き飛ばしていく。必死だった。今度捕まったらもう逃げられない。終わりだ。
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