第4話 後悔

 花魁は色を売る。

 夜ごと男たちは馴染なじみの花魁を求め、大金と引き換えにひと時の甘美な夢を見る。

 男の極楽、女の苦界くがい。それが江戸の吉原だった――そう、かつては。


「おいでなんしぃ」


 艶っぽい声と花魁のく香の匂いが、夜の風に乗って大門の外まで届く。庶民の活動時間と入れ替わるようにして唯一夜に活気づく江戸吉原。

 大門のすぐ脇から中をのぞき込んでいた麟太郎は、粟立あわだつ腕をさすりながらぼやいた。


「あー駄目だ駄目だ。この匂いを嗅いでるだけで吐き気がしてくる」


 もう何度往復したか知れない五十間道ごじっかんみちを再び逆戻りする。道の左右には数十軒の茶屋が並び、吉原初心者のための案内合戦が繰り広げられている。それらから目を逸らそうと正面を向けば、にやにやと満面に喜色をたたえて大門に向かう男たちの顔が目に入った。


 どっぷりとため息が出る。

 花魁が色を売っていたのは今は昔。花魁たちの売り物は体から心へと変わっていた。心を売るといえばいかにも色事めいた響きだが、実際は色事とは程遠い〝ごう〟である。

 人の心が持つ様々な流れや行為。善も悪も含めた全ての心の動きを業と呼び、花魁たちはこれを操るというのである。にわかには信じがたい眉唾話は、しかし一番わかりやすい形で証明された。


 花魁が業をもって妖かしを退治てみせたのだ。


 江戸中期頃のことである。どういう術かわからないままに花魁たちは次々に妖かしを退治していった。彼女たちは妖かし退治を浄化と呼び、いつしか吉原には浄化を求める男たちが訪れるようになった。花魁たちの役目が劇的な変化を遂げた瞬間だった。


 それに目を血走らせたのが、それまで妖かし退治をしていた武士たちである。

 古来より妖かし退治は武士の役目であった。剣術の腕を高め、仕える主のため、果てはお上の民のために、日夜妖かしを斬る。そんな誇り高い役目を武士の矜持きょうじもろとも横からかっさらわれたのだ。


 憤激ふんげきした武士たちの怒りは凄まじかった。武士に無礼を働いたとして公然と斬り殺したり、中には吉原に火をつける者まで出たという。しかし吉原はその度に雑草根性よろしく、たくましい再建を果たした。幕府が武士たちの火付けのとがを見逃す代わりに、吉原の再建費用を払っていたのである。武士で構成される幕府にとっても武士たちの心情はよくわかるが、現実に目を向けて見れば吉原の存在は必要不可欠だった。


 長く続く泰平の世が、武士たちの力を徐々に衰えさせていたのだ。娯楽が生まれ、生活に余裕が出てくるにつれ武士たちもやすきに流れ、表立ってはいなかったが、武士が妖かしに押されることが多くなっていたのだ。


 そこに花魁たちの浄化が現れた。幕府にしてみれば渡りに船である。武士の体面がある以上、建前としては武士を立て、その裏で花魁たちを黙認するという手に出た。

 結果、腰に刀は差せども一度も抜いたことがない武士まで出る始末である。こうなっては到底武士だけで江戸を守り切れるわけがない。すでに江戸は吉原なくして成り立たないほど、花魁たちの浄化に頼っていたのである。


 公式に妖かし退治を認められた武士と、非公式に実務の大部分を担う花魁。両者が対立するのは必然のことだった。それぞれの言い分は妥協点を見出すことなく、花魁など不要と断じる武士たち源平派げんぺいはと、吉原を中心とする花魁擁護の桜花派おうかはに分かれ、両者の対立は激化の一途をたどっていた。

 そして麟太郎は当然源平派であった。


「あーちくしょう」


 どすどすと足を踏み鳴らして、五十間道を逆走する無粋な麟太郎に、周りの男たちが眉をひそめる。

 自分に向けられる白い目も気にせず、麟太郎は衣紋坂えもんざかの終わりまで来ると、思い切り息を吸った。香の匂いが混じらない空気は実にうまかった。


「ったく。……なんであんなことを引き受けちまったんだ」


 一人ぼやく。後悔先に立たずとはよく言ったものだ。

 輝貞との密偵の契約を交わすまでは良かった。あのときは吊られた餌の大きさに興奮して、密偵がいかなるものかというところまで考えが回らなかった。

 吉原の密偵になるとはつまり、吉原のどこかの妓楼に若い衆として雇われるということだ。


 武士になれるならなんでもやるさ。そう簡単に考えていた。その覚悟がいかに軽く、考えなしだったか、こうして実際に吉原に来て思い知った。

 どうしても大門より先に足が進まない。嫌なのだ。全身がその先に進むことを拒絶していた。

 ましてや妓楼の若い衆として、花魁にあごで使われるなど、想像するだけで嫌悪と屈辱で身をよじりたくなる。

 冗談じゃねえ。心底そう思った。

 確かに源平派の密偵なら吉原に情を移すことはないだろう。だがそれ以前に吉原に入ることを承知する源平派の者がどれほどいることか。


『――黒羽織党くろはおりとうだ』


 あの日、神社を去ろうとする輝貞に、麟太郎はどうして吉原に密偵を忍ばせるのか尋ねた。

 ぴたりと足を止めた輝貞は背を向けたまま、あっさりとそう答えたのだ。


『く、黒羽織党……』


 思わず唾を飲んだ。その名を源平派で知らない者などいない。

 黒羽織党。会合には必ず黒の羽織を着こむことからそう名付けられたというその党派は、過激な花魁排除を唱え、花魁の惨殺死体が見つかる度に下手人として噂が流れるほどである。

 その危険な思想ゆえにほとんど顔は知られておらず、麟太郎も黒羽織党の人間を見たのは初めてだった。


『ああ。筆頭だ』


 輝貞がゆるく振り返る。整った横顔に微かな笑みを浮かべながら。

 それだけで全てを物語っているようだった。花魁排斥はいせきを唱える筆頭が吉原に密偵を差し向ける。即ち本気で吉原を潰しにいくと言っているも同然である。

 それほど重要な役割を持つ密偵役に、輝貞はよくもまあ、つい先日知り合ったばかりの麟太郎を選んだものである。相当な酔狂すいきょうか、はたまたよほどの人材不足か。


「……後者だろうな」


 不浄の地。けがれた不浄女。生まれつきの武士ならば、その言葉は骨の髄まで染みついている。

 麟太郎でさえ吉原に足を踏み入れることすらままならないのだ。それが生粋の武士ともなれば、意地もあれば体面もある。白羽の矢でも立てた日には、本当に切腹しかねないのだろう。

 だが。

 麟太郎は深々とため息をついた。


「――俺も無理だ」


 五十間道を行ったり来たりしながら何度も考えた。武士の身分と吉原の密偵とを秤にかけて、それこそ何度も何度も考えた。決して武士になりたい思いが軽いわけではないが、それでもやはり嫌なものは嫌なのだ。


 密偵の話は断ろう。断腸の思いでそう決意し、麟太郎は衣紋坂を後にした。

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