第32話 紙一重
伊右衛門に託された願いを抱え、麟太郎は江戸の町中を移動していた。
輝貞のいる場所は伊右衛門も知らなかった。だがキリなく湧き出す妖かしを見ているうちに気づいたことがあった。四方から現れているように見える妖かしだが、どこかを中心に増え、それが散らばっているのではないか。
そしてその中心こそが、輝貞なのではないか、と――。
あてどなく歩いてはいたが、徐々に輝貞に近づいていっている予感があった。
妖かしの数が増え、その大きさも力の強さも上がってきている。
麟太郎は背をどこかの家の壁に預けた。いよいよ疲労が限界にきつつあった。血と雪でぬかるむ地面に足を取られる回数が格段に増え、刀を握る手に力が入らなくなってきていた。
そのまま座り込みたい欲求に駆られる。だが、伊右衛門との約束がある。
伊右衛門との約束は麟太郎の
地面に飲み込まれるような疲労を無理やり押さえつけ、麟太郎は壁から背中を引きはがすと、再び刀を握りしめ歩き出した。
麟太郎は吉原を出てから南下するように江戸の町を移動していた。湧き出るような妖かしが、麟太郎を輝貞の元へと導いていく。輝貞が目指している江戸城へと――。
進むにつれ、いよいよ妖かしの数が尋常ではなくなってくる。狭い道幅いっぱいに妖かしがひしめき合い、遠回りを余儀なくされることもたびたびだった。
そうして江戸城へと通じる門の一つ、桜田門までたどり着き、輝貞らしき人影を見つけたとき、麟太郎は愕然とした。
輝貞の周りにはおびただしい妖かしが渦を巻き、まるで輝貞そのものが妖かしと化してしまったかのように、その異常な光景に溶け込んでいた。妖かしも輝貞を襲おうとはせず、取り囲むように集まり、ゆらゆらと揺れているだけである。
そのせいか、あれほどの妖かしに囲まれながらも輝貞に恐怖の色はまるでなく、むしろその状態を満ち足りたものと感じているかのように恍惚とした表情を浮かべていた。
理性の綱を自ら喜んで手放したかのような、一線を越えてしまった狂人の顔。
おぞましい――。
その一言に尽きる光景だった。あまりの
「来たか」
待っていたといわんばかりの愉悦の顔で、輝貞が言う。まるで妖かしを
背中が粟立つ。何かに似ていると思った。いったい何に……そう考え、ふっと思い当たった。
――妖かしの笑み。
輝貞の笑い方は、妖かしが獲物を見つけてにたりと真っ赤な口を開ける姿とそっくりなのだ。
ぞっとした。
輝貞が妖かしなのか、妖かしが輝貞なのか。一瞬両者の違いがわからなくなった。
背筋を這いまわる怖気を振り払うように、真っ直ぐ輝貞を見た。
「あんたを止めにきた」
輝貞の顔がふっと真顔になる。失われた理性がそのときだけ取り戻されたかのようだった。
「止めにきた? おまえがか?」
「ああ」
ふっ、と輝貞が笑う。
「何を止める? これが正しい江戸の姿だ。憎悪に満ちた本来の姿だ。どんなに表面を取り繕おうと、一枚皮をめくれば、この通り隠されていたものが現れる」
「あんたが招いたことだ」
「違う。俺はきっかけを作ったに過ぎない。元々江戸とはこういう町なのだ。憎しみや妬みを威勢や見栄で覆い隠してやり過ごす。
「だからって手前勝手に壊していいってのか」
「手前勝手か。しょせん人間なんてのは手前勝手な生き物だ。それはおまえだってよく知っているはずだろう。武士の身分が欲しいという手前勝手で、吉原を売ったおまえなら」
輝貞の酷薄な笑みが、麟太郎の反論を完封する。狙い撃ちにされた的確な急所。紛れもない事実であり、麟太郎を贖罪の途へと駆り立てた
「――おまえは俺と同じだ」
揺らぎ難い答えを告げるように輝貞が低く断言する。
びくり、と体が反応した。輝貞の放った言葉を体が有無を言わさず吸収していく。握りしめていた刀ごと手が小刻みに震え、呼吸が浅く、早くなっていく。押さえつけようとしても止められなかった。
麟太郎が戸惑って顔を上げれば、
息が止まりそうなった。輝貞は同胞を見る目つきで、麟太郎を見ていた。
「やめ、ろ……」
「初めて会ったときからおまえには、どこか俺と通じるものを感じていた。己の望むものを手に入れるためなら、他のすべてを犠牲にして平然としている身勝手さ。――どうして自ら望むものを手放した? おまえにはそれを手にする資格があったというのに」
「やめろ……」
輝貞の言葉は空気に混じって散布される毒紛のようだった。知らず知らずのうちに吸い込んで、毒されていく。
「俺は止まらんぞ、麟太郎。どこまでも突き進む。不浄な花魁も、そんな不浄の存在を許す幕府も、江戸の町もすべてが憎い。憎くて堪らないのだ! 中はあれほど歪んで醜いくせに、うわべの美しさを強要する世など、俺がこの手で、この憎悪で、ぐちゃぐちゃに壊す!」
輝貞が気合を吐くと、それに呼応するかのように、輝貞の周りにいた妖かしたちが一斉に雄たけびを上げた。
おぉおおおぉ。おおおぉおおぉ……。
頭の中に直接響いてくるような
感情をかき混ぜられる猛烈な不快感に、麟太郎はたまらず刀を離して耳を塞いだ。
「やめろ、やめろぉっ!」
世を憎む恨みの塊を直接食らっているかの錯覚。剥きだしの狂気に浸食され、頭がおかしくなりそうだった。意識が混濁し、自分の手足が妖かしの爪に変じ、やめろと叫ぶ声が妖かしの怨念に満ちた声に溶けていく。底なしの恐怖に引きずり込まれた。
伊右衛門との約束も忘れ、贖罪の思いも弾け飛び、麟太郎は無我夢中で傍らの刀に手を伸ばした。
そんな麟太郎の様子を見て、輝貞が高笑いを上げる。
「江戸は終わりだ。腐った吉原も、花魁どもも、全部何もかも壊してしまえぇ!」
輝貞が
せめて最後だけは――。
その一心で手が刀を掴んだ。くるりと柄の部分を返し、刃の切っ先を己の腹へと向ける。
もはや一つの塊のようになって怒涛の勢いで突進してくる妖かしを視界の端に捉えつつ、麟太郎は大きく息を吸い、吐いた。
「ハッ――」
裂帛の気合で刀を腹に突き刺す。肉が裂ける痛みが弾ける――刹那。
ふわり。
何かが香った。
嗅ぎ慣れた懐かしい匂い。なぜか落ち着く香り。この匂いは。
唐突に思考が澄み切った。取り巻くすべてが清浄化されていくような
「緋里の、匂い……」
ぽつりと呟いた自分の言葉に、ハッと我に返る。
腹を貫く寸前で止められた刀。引き裂く直前で静止した妖かしの爪。
まるでときが一瞬止められたかのような静寂の沈黙の中、血の臭いに満ちた不浄を祓うように清廉な香りが麟太郎を護るようにほのかに香っている。
半ば茫然としながら妖かしに目を向けると、なぜか妖かしが一歩一歩と後退っていく。
何が起きたのか理解できないまま、すっかり機を逃した武士の最後の在り方を取りやめ、のろのろと刀を持ちなおそうと、右手を動かしたときだった。
一際強く、香りが舞った。
反射的に右袖に手を突っ込む。何かが手に当たり、掴みだす。
それは小袋だった。ふわっと緋里の匂いが広がる。
「ああ……」
思わず声が漏れた。
妖かし避けとなる花魁の香。緋里の調合した香である。
どうしてこんなものがここに……。
疑問と同時に、匂いに触発されるように記憶がよみがえった。
緋里と最後に会ったときの記憶。最低の別れの記憶――。
麟太郎が輝貞の密偵であることが露見し、廊下へと逃げ出そうとしたとき、袖を引かれた気がした。あのとき、緋里が麟太郎の袖を掴み、この香を忍ばせたのである。
そこにどういう意味があったのかわからないが、安易な死へと逃げようとした麟太郎を、緋里は今度こそ逃がさないとばかりに引き止めたのだ。
「はは……。とんでもねえ花魁だ。どうしても俺を武士にしたくないらしい」
腹の底から笑いがこみ上げた。
もうすっかり死ぬ気は失せていた。というよりは、切腹の覚悟というのは一生に一度しかできないものらしい。さっきは何の抵抗もなく己の腹に刃を向けられたものだが、死に損なったいまでは刀を自分に向けるなど、恐ろしくて想像すらしたくない。
だが現状が改善されたわけではないのだ。香の効果も一回きりのようで、一度は引いた妖かしが再びざわめき、麟太郎へとわらわら向かってきていた。
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