第31話 遺言
麟太郎は武家屋敷が立ち並ぶ通りに出た。江戸詰めの武士たちがさぞ奮闘したのだろう、すでに無数の妖かしの死体がごろごろと転がり、それ以上の数の武士たちの死体で道が埋め尽くされていた。
武士の死体を踏まぬように慎重に歩を進める。武士の死体を踏まない代わりに、妖かしの死体は容赦なく踏んづけた。血で
周囲には生きている人間の気配も妖かしの気配もない。すべてが過ぎ去った後の、
「もうこの辺りには生きている妖かしはいないか」
麟太郎が横道に逸れようとしたとき、近くで呻き声のようなものが聞こえた。
慌てて周りを見回す。妖かしは呻き声など上げない。まだ生きている人間がいる。
麟太郎は凄惨な無数の死体に目を凝らした。到底生きてはいない状態の死体ばかりだったが、それら死体の一部がぴくりと動いたのを麟太郎は見逃さなかった。
そちらに駆け寄り、上に覆いかぶさっていた死体を脇にどけると、下から深手を負った壮年の武士が現れた。顔も体も大小の傷で血まみれだったが、特に腹部に走る大きな
「おい、しっかりしろ」
麟太郎の声に壮年の武士の
眉間にしわを寄せる厳めしい顔に、どこか見覚えがあった。
「あんた、どこかで……」
呟きながら、ふっと記憶がよみがえった。
輝貞の隣に立つことを何よりの誇りと思っているような、戦国武将然とした顔。
「だ、誰だ……?」
壮年の武士がなんとか声を絞り出す。
一瞬言葉に詰まった。なんと答えればいいのか迷い、結局そのまま告げた。
「中沖麟太郎だ。あんたのところの次期藩主に言われて、吉原の密偵になった」
壮年の武士、伊右衛門の目が驚いたように見開かれた。血で濁った眼が、ぎょろりと麟太郎を見る。
「そうか、あのときの……」
「ああ」
「いまさら言うても遅いが……おぬしを密偵にしたのは、大きな過ち……だったな」
伊右衛門が喘ぐように言う。
伊右衛門にとってみれば、麟太郎は大事な主に牙を剥いた裏切り者だろう。
「……見込み違いってやつだ」
「そうではない。おぬしは密偵として優秀すぎた。もしおぬしがあれほどの働きを見せなければ、あるいはこの事態は免れたかもしれん……」
「……どういう意味だ?」
ぞわりと嫌な予感がした。
「おぬしの集めた情報を使って、輝貞様は吉原に圧力をかけた。おぬしが知る以上にな。表からも裏からも、ありとあらゆる手を使った。わしも動いた。それが橘藩のため、ひいては武士の世のためになると思っていた。輝貞様の力も信念も信じていたからな」
「それがこの事態と、どういう……」
「輝貞様の狙いは武士の世のためではなかった……。わしがそのことに気づいたときには、もう手遅れだった。輝貞様はすっかり吉原を潰す準備を整え終わっていた。――吉原の力を弱め、妖かしをあふれさせる準備を」
「それって……浄化する花魁が減ったから、妖かしが増えたってことか?」
「それもある。が、輝貞様の本当の狙いは吉原ではない」
「吉原じゃない? あいつは花魁を憎んでる。吉原じゃなかったら、いったい何を」
「――江戸だ」
ぐっ、と伊右衛門が喉を詰まらせ、血の塊を吐いた。
「お、おい……もう喋るな」
麟太郎が止めるも、伊右衛門は言葉を継いでいく。
「輝貞様は江戸を混沌に沈めようとしている。花魁の存在を許し、頼るしかない江戸そのものを壊そうとしているのだ。他でもない妖かしを使って」
「妖かしを使うなんてそんなことできるわけがない。あいつらがなんなのかもわかってねえんだぞ」
「妖かしの正体はわからんが、あやつらは人の憎しみの感情と好むと、輝貞様が言っておられた。花魁は虐げられ、吉原は憎しみであふれた。妖かしにやられた江戸の民は、自分たちを守らない世の不条理を憎んだ。江戸の町に満ちた憎しみの感情に引きつけられ、妖かしがあふれたのだ」
「そんな、馬鹿な……」
伊右衛門の口から告げられる言葉は、あまりにも突飛すぎた。
それでは輝貞は初めから江戸を壊すつもりで、麟太郎を密偵として吉原に送り込み、吉原の力を削ぐとともに、江戸の町に憎しみの感情を蓄えさせていたということになる。
花魁たちが命を賭して守ろうとしている江戸の町を、他ならぬ花魁の憎しみと江戸の民の憎しみであふれかえさせて――。
「すべては輝貞様の花魁を憎む心が招いたこと。そしてそれに薄々気づきながら、見て見ぬふりをしてきたわしのせいだ」
絶え絶えに息を継ぐ伊右衛門に掛ける言葉など、麟太郎には到底思いつかなかった。
伊右衛門の血で濁った眼が、どこか遠くを見つめるように眇められた。
「――あの方は生まれながらにして
「……あんた、まさか全部見てたのか?」
「ああ。千早が身ごもったときからずっと、わしが差配をしてきた。橘藩には輝貞様の異母兄がいたが、輝貞様が十五歳のときに亡くなられて、橘藩は輝貞様を跡継ぎに据えた。だが輝貞様に対するやっかみと、不浄な花魁の子であるとしての嫌がらせはひどく、何度も毒を盛られ、暗殺されかけたりした」
輝貞の目に宿る昏さが思い出された。
「そいつは同情するが、もっとひどい身の上はいくらでもあるさ」
「そうだろうな……。輝貞様はもともと精神が細いところのある子だった。藩内で命の危険に晒されながら、それでも母親を心の拠り所にしていたのを覚えている。しかし千早は輝貞様を心配するどころか、金をせびった。掌を返したように輝貞様に執着するようになったのだ。次第に輝貞様は千早を邪険に扱うようになり、憎悪するようになっていった」
母親に向かっていた感情の反転。いくら欲しても得られない愛情を憎悪に変えることで、輝貞は精神の均衡をはかった。こんな目に遭うのは母親のせい。母親が花魁だったせい。花魁なんて存在がいるせい。花魁の存在を許す世のせい。
輝貞の感情の推移が透けて見えるようで、麟太郎は
「……境遇に同情はしても、あいつのしたことはただの逆恨みだ」
麟太郎が静かに告げると、伊右衛門はわかっているようふうに目を閉じた。
「……おぬしにこんなことを頼むのは筋違いだとわかった上で頼みたい」
「なんだ?」
大方の予想はついていた。
もうほとんど聞き取れなくなっている伊右衛門の声を拾うため、麟太郎は顔に耳を近づけた。
「て……てる、さだ様、を」
「ああ」
「止めて、くれ……」
「……いいのか?」
訊き返せば、伊右衛門は虚ろな目を開き、これが最期の言葉だとばかりに力強く頷いた。
「――どうか、殺してやってほしい」
伊右衛門の激しく燃える双眸が、その言葉を最後にみるみる力を失っていく。再び閉じられようとする瞼が、下りきる寸前、麟太郎は伊右衛門の目の前に刀をかざした。
「承知……仕った」
刀身がきらりと鈍色に光る。
伊右衛門の瞼がゆっくりと閉じられた。
たとえその瞳が刀を映していなくても、麟太郎の声が耳に届かなくても、刀が放つ真っ直ぐな光だけは届いている。そう確信できるほど、伊右衛門の顔は安堵に満ちていた。
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