第30話 血の贖い
「麟太郎を」
そう告げた緋里は、続く言葉を見失って口を閉じた。
〝見逃して〟なのか、〝捕えて〟なのか。どちらを言おうとしたのかわからなかった。
捨助が気遣わし気な視線を寄越してくる。
「大丈夫でありんす」
緋里が機先を制すと、捨助が堪らないといった様子で顔を歪めた。
「このやろう……。本当は歩くのだってしんどいくせに」
「そんなことありんせん。ここまで歩いてきんした」
「……なあ、おぶってやろうか」
「いやでありんす」
にべもなく断る緋里に、捨助が渋々黙る。
「わっちを誰だと思っていんすか。吉原一の花魁でありんすえ」
「……でも花落ちに勝てる花魁はいねえ」
「勝つ気はありんせんよ……。でもこの江戸を救えば、きっと緋里の名ぐらいは残るでありんしょう。そうすればわっちは永遠でありんす」
花魁として名が残せるのであれば、緋里としては本望だった。親がつけた本当の名よりずっと耳に馴染み、己の一部だと感じるこの名が残せるのならば。
「だからか?」
「え?」
「だから髪切りをしたのか?」
捨助の言葉に咄嗟に反応し損ねた。答え損ねた
沈黙は肯定。捨助はそう捉えたらしい。緋里よりよっぽど苦しそうに眉根を寄せた。
「……
緋里は笑った。
「まったく抜け目のない……」
「どっちがだ」
緋里は小さく息を吐き、雪と血に染まった江戸の町を真っ直ぐな瞳で見つめた。
「わっちは伝説になるでありんすよ、捨助」
麟太郎は息の続く限り走り続け、その途中で出会った妖かしは片っ端から斬り倒した。
なぜ緋里から逃げ出したのか、もはやそんなことはどうでもよかった。
すべきことは一つだった。妖かしを斬る。江戸中の妖かしをすべて斬るのだ。一匹でも多くの妖かしを倒し、緋里たちの負担を減らすこと。
それが麟太郎にできる最大の役目。吉原を壊滅寸前まで追い詰め、花魁を死に追いやり、挙句、江戸の町を救える存在を奪った麟太郎に課せられた罪滅ぼしだった。
もう欲しいものはない。残されているものと言えば、この剣術の腕と命ぐらいのものだ。
自分勝手な
「……悪くねえ」
都合よくひっさげた大義名分としては、上出来だった。
麟太郎はすでに血にまみれた刀を握りしめると、江戸の中心目指して走り始めた。
目についた端から妖かしを斬り倒していく。すでに手遅れの者もいれば、麟太郎が駆けつけたことによって助かった者もいた。助かった者たちは一様に麟太郎に篤く礼を述べていくが、それらはすべて麟太郎の耳を素通りしていった。
もっと斬らねば。もっと妖かしを。その思いだけが心を占めていた。
追い立てられるように、江戸の町を闇雲に駆ける。悲鳴がすれば駆けつけ、手近に妖かしがいなくなれば、一緒にいてほしいという頼みを断って、次の妖かしを求めて走る。妖かしが無差別に人間を襲うように、麟太郎も目についた妖かしを斬って、斬って、斬りまくった。
灰雪がふわふわと舞い、風に乗って右に左にと流れていく。地面にうっすらと積もった雪で白い部分は少ない。どこも人間のものか、妖かしのものか判別のつかない血で赤く染まり、見慣れたはずの江戸の町がまるで別の場所のようだった。
麟太郎が十字路を突っ切ろうとした矢先、妖かしが横合いから飛び出してきた。
「っ、とぉ!」
勘で刀を横なぎに払った。半ば刀と激突する形で肉を断つ手応えがあった。着物に血が飛び、刀を握る手がぬるりと粘ついた。横目で崩れていく妖かしを確認しつつ、また走る。
「くそ、ほんとにどこからこんなに湧いて出てきやがった!」
倒しても倒しても、一向に妖かしの数が減る気配がない。それどころか、増えている気すらした。
だが、足を止める気も、刀を下ろす気もなかった。
やってやる、やってやる。何も残せない自分なら、跡形もなくなるまでやってやる。
麟太郎の背後にうずたかく積まれた吉原の怨念。死んでいった花魁たちが麟太郎を急き立て、死の淵へと追い落とそうと追ってくる。武士の身分欲しさに犯した過ちが、麟太郎の足に巻き付いて離さない。
そうして江戸中をがむしゃらに駆け回るうち、疲労とともに傷の数も増えていった。疲労で足の動きが鈍くなり、避け損ねた妖かしの爪が新たな傷を作っていく。みるみる命の残りが減っていくのがわかった。
しかし無謀で捨身な戦いに臨めば臨むほど、気が落ち着いた。むしろ快い気分だった。
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