第34話 武士の生き様
果たして輝貞は半蔵門の内側へと歩を進めていた。もはや麟太郎らなど眼中にないらしい。
走り込みながら叫ぶ。
「輝貞あぁ!」
輝貞が首を捻り、
「生きていたか」
「そう簡単にくたばってたまるか」
輝貞が江戸の町を
「見ろ、江戸の終わりだ」
うっとりと告げる。輝貞の目にはいまの江戸が唯一安らぐ極楽のように映っているのか、その目が甘く
一瞬、
ときは決して輝貞の味方をしなかった。小さな傷が化膿して
「江戸は終わらない。そんなことさせない」
輝貞の口から
「いいことを教えてやろう。妖かしの正体についてだ」
「妖かしの正体……」
「考えたこともないか? 俺は常々考えていた。こいつはいったいどこから湧いてでるのか。いや、そもそもこいつらはいったい何なのか。いつからいるのか。俺は片っ端から文献を調べたが、こいつらの正体について書かれたものはなかった。わかったのは、数十年、もしくは数百年という長い年月の間に、いまのように妖かしがあふれ出したことがあったことだ」
「なんだって!」
「嘘ではない。その度にときの権力者たちがその事実をもみ消し、別の天災として書物に残させてはいたが、禁書にはしっかりと残されていた。もっとも妖かしも天災の一つとして書かれ、それはいまも変わらん」
「妖かしが天災……。じゃあこれも地震や日照りみたいなもんだっていうのか。馬鹿な。これはおまえが招いたことだ」
「どうして?」
輝貞が口の端を持ちあげて笑う。ひどく不気味な笑顔だった。
「どうしてって、そりゃ……」
そこで麟太郎は言葉に詰まった。思い当たった答えに激しく動揺した。
いや、まさか、だってそんなこと。
だが、伊右衛門が言っていなかったか。
――江戸の町に満ちた憎しみの感情に引きつけられ、妖かしがあふれたと。
輝貞の作り出した状況によって、江戸の町に妖かしが溢れたのだとしても、そもそも妖かしはどうやって数を増やした?
増えた理由があるはずだった。
それを輝貞は天災だという。人の手が遠く及ばない災厄。はるか昔から繰り返されてきた、妖かしの異常増加。
もし、もしそうだと言うなら。
すなわち妖かしをここまで爆発的に増加させたのは――。
「……憎しみそのもの」
絶望を吐き出した気がした。
対して輝貞は愉快極まるといった様子で笑みを深くした。
「そうだ、憎しみだ。妖かしは人間の憎しみの感情を糧としている。憎しみが妖かしを生み、増やし、人を襲う。襲われた人間の家族は妖かしを憎み、また妖かしが増える。そうして妖かしははるか昔から人間と共存してきたのだ。人間がいる以上、妖かしが消えることもない」
「そんな……」
「それが人間と妖かしの歴史だ。世の中に憎しみがはびこったとき、妖かしはその数を増やす。いまのようにな。だから俺は江戸を憎しみで埋めるため、不浄な吉原を血祭に上げることにした。おまえを使って情報を引き出し、奉行所に圧力をかけて吉原を弱体化させるとともに、吉原自体にも憎しみをあふれさせる。妖かしを浄化する花魁たちが逆に妖かしを増やしていたなど、愉快以外の何ものでもない」
輝貞が喉の奥でくつくつと笑いながら、言葉を続ける。
「そして妖かしが爆発的に増えるには、もう一つ条件がある」
輝貞が言うまでもなく、答えは想像がついた。
「輝貞、あんた自身だろう。あんたの花魁に対する異常な憎悪が引き金となった」
「そうだ。俺のいる橘藩の下屋敷付近は妖かしが多い。誰もが土地柄だと信じて疑わなかったが、俺が来るまでは他と変わらなかったそうだ。俺が花魁を憎む感情に、妖かしが惹き寄せられていたのだ」
そう言って輝貞が両手を広げると、周囲にいた妖かしたちが同調するようにいきり立った。
「こいつらは俺自身だ。俺の憎悪を食らって無限に増え、江戸を食らい尽す!」
妖かしが呼応してざわめき、麟太郎を取り囲むようにゆらり、ゆらりとうごめく。
輝貞がいる限り、憎悪の根源を断たない限り、妖かしは増え続けていく。
「妖かしは天災なんかじゃない。人災だ。天災は止められねえが、人災なら止められる」
麟太郎が淡々と告げると、輝貞は歯を剥きだしにして笑った。
「俺を止められるものなら止めてみるがいい!」
輝貞の高笑いは止まらない。麟太郎の四方から妖かしの輪が狭まっていた。
「止めてやるさ。おまえが止まれねえなら、俺が止めてやる」
言い放つと同時に、麟太郎は地面を蹴った。両脇から迫りくる妖かしを
むせ返るような血臭を祓うように、清浄な空気だけが
麟太郎は思いっきり息を吸った。
緋里は花魁であることを貫き通した。花魁として江戸の危機に駆けつけ、江戸のためにその身を散らそうとしている。いまこうしている間も緋里は浄化し続けているのだろう。憎しみを糧とする妖かしにキリはなくても、命が続く限り、緋里が立ち止ることはない。
だがここで麟太郎が輝貞を討てば憎しみの供給源を失い、妖かしの勢いは弱まるはずである。
贖罪などもうどうでもよかった。いまはただ、緋里を死なせたくない。ただその一心だけが麟太郎を突き動かしていた。
麟太郎が渇望していたものに気づいたのはついさっき、緋里に自分は武士だと名乗ったときだった。それは武士の身分でもなく、武士として死ぬことでもない。
麟太郎が本当に望んでいたものは、武士の生き様――。
己を取り巻く万事に惑うことなく、己の信じた道をひたむきに貫き通す在り方。
緋里は自らが花魁の生き様を貫き通すことで、麟太郎にそのことを気づかせてくれたのだ。
そんな唯一無二の者を、こんな形で失うわけにはいかなかった。
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