第35話 最期の光

「どっけえぇ!」


 後から後から湧いてくる妖かしが麟太郎の行く手を阻む。まるで自分たちの力の源を守ろうとしているかのようだった。刀で斬っては、爪に裂かれる。

 目の前に立ち塞がる妖かしだけに専念してようやく輝貞の前まで躍り出た頃には、麟太郎は緋里に負けず劣らず、立っているのが不思議なほど満身創痍まんしんそういの状態だった。


「一騎打ちだ」


 麟太郎が言うと、輝貞の醒めた瞳に初めて怒りのようなものが宿った。


「……よかろう。俺が相手をしてやる」


 すらりと刀を抜く輝貞からは一切の狂気が抜け落ちたように、異様な静けさが放たれている。この世のすべてを憎悪する苛烈な念が、全身からみなぎって陽炎が立ち上らんばかりである。


 麟太郎は駆けた。走り込んだ勢いを極力殺さずに一足飛びに、輝貞の首元へと刀を滑り込ませる。しかし輝貞はそれを寸でのところで受け止め、払うように脇に流した。麟太郎が横に流れた刀の制御を取り戻すより早く、輝貞が次の行動に移っていた。目にもとまらぬ速さで抜き放った脇差が麟太郎の胴を貫こうとしていた。麟太郎は空中で身をよじるようにしてそれを避ける。着物の一部が斬られ、はらりと宙を舞う。紙一重のところであった。地に着地した麟太郎は、後方に跳び、輝貞と距離を取る。


「二刀流……」


 輝貞は右手に打ち刀、左手に脇差を構えていた。その姿に一切の隙はない。かなりの腕前である。間違いなくどこかの免許皆伝級だろう。我流に近い麟太郎とは真逆で、おそろしく流麗な型である。


「憎い。憎いぞ、麟太郎! 武士に焦がれながら、吉原に堕ちおって!」


 呪詛じゅそを吐く輝貞の顔が悪鬼のように歪む。

 互いに間合いを図りながら、すり足で移動する。妖かしは輝貞が命じたのか、襲ってくる気配はない。妖かしが作った輪の内側が、いまや二人の土俵だった。


 頬を伝う一筋の汗が地に落ちただけで均衡が破られそうなほど、極限まで緊迫した沈黙。密度の濃い呼吸が心理状態を相手に知らせ、次の一手を決める読みとなる。麟太郎と輝貞、実力は五分五分だった。実力が拮抗する者同士が正面から打ち合えば、刹那の動きが勝敗を決する。


 輝貞が動く。ざりっと後ろに右足を引き、左手に体の重心をわずかに傾ける。麟太郎が間合いに踏み込んだ瞬間、輝貞は間違いなく首を狙ってくる。

 全神経を輝貞に向けた。呼吸を乱さないようしっかりと己を律しながら、相手の呼吸から踏み込む機会を窺う。輝貞の足運びは慎重かつ狡猾こうかつだった。麟太郎が一歩間合いを詰めれば、輝貞も麟太郎の動きにぴったり合わせて一歩退く。麟太郎がわずかに込めた力を瞬時に見切り、付け入る隙を与えないのだ。それでいてしっかり攻撃の機も図っている。


 互いに攻めあぐね、円を描くようにゆっくりと移動していく。

 しかしこのまま膠着こうちゃくを続ければ、先に力尽きるのはここに来るまでに相当の体力を消耗している麟太郎なのだ。討って出ないわけにはいかなかった。


「はっ!」


 あえて気合を吐き、大胆に踏み込んだ。

 真正面から斬りつけた刀は輝貞に難なく片手で受け止められ、もう一方の手がすかさず麟太郎の脇腹を狙ってくる。踏み出した足に力を込め、勢いで後ろに跳び退いて避ける。

 だが輝貞は追ってきていた。麟太郎が後ろに避けることを読み、脇腹を狙うと見せかけて、受け止めた刀でそのまま斬りつけてきたのだ。咄嗟に身を仰け反らせる。寸で刀を避けた。直後、輝貞の脇差が麟太郎の脇腹を抉った。


「ぐうぅ!」


 引き結んだ口から痛みが漏れた。裂かれた部分を手で押さえ、後ろに数歩よろめく。

 さらなる追撃に備えて前を見れば、無感動な輝貞の瞳とぶつかった。いっそ哄笑を上げているときの方がよっぽど人間味があったと思えるほど、その表情は空虚に満ちていた。


 輝貞の目は何も映していない。いま、目の前で対峙している麟太郎も、江戸を荒廃に導く妖かしも。その目はただ虚空を、どこか麟太郎の知らないところを見ていた。

 無数の傷に、新たな傷が増え、その度に出血を繰り返してきた麟太郎の体は、いよいよ限界を超えようとしていた。気を抜くと握る力が弱まり、刀を取り落としそうになる。いまにも崩れそうな膝はあと何度本気で踏み込めるか。


 ふっ、と輝貞がしなやかに動いた。揺れる柳のような自然さで麟太郎に迫り、枝が生えるように、にゅっと刀が突き出される。紙一重で避けかけて、慌てて輝貞の刀を弾いた。避けたが最後、輝貞の脇差が麟太郎の心臓を貫いていただろう。輝貞は弾かれたことなどまるでなかったように、次々に斬撃を繰り出してくる。およそ戦術もない単調なものだったが、それだけに受ける麟太郎に掛かる負担は大きい。受け止め、受け流し、決して避けることは許されない。加えて輝貞の斬撃はどれも重かった。刀を握る手が痺れてくる。


「くっそおおおっ」


 麟太郎はやけくそのように叫び、渾身の力を込めて受け止めた刀を押し返した。いきおい鍔迫つばぜり合いのような形で輝貞と向き合い、純粋な力比べになる。

 そのまま押し切ろうとするが、輝貞は余裕を残した涼しげな顔である。呆気なく弾き飛ばされた。跳ね返された勢いを殺しきれずに、足がもつれて尻から転んだ。カシャン、と刀が手から転げ落ちる。慌てて拾って立ち上がろうとするも、重石でもつけられたように体が持ち上がらない。野良犬のようにじたばたともがいた。


「……無様だな」


 ぽつりと輝貞が呟く。

 麟太郎は刀を杖替わりのようにしてなんとか立ち上がる。


「無様でもいいさ。あんたのようにはなりたくない」


「おまえでは俺にはなれん」


 いったいどういう意味なのか、輝貞の声はひどく寂しげだった。

 麟太郎はふらつく足で地面を蹴った。輝貞の間合いに入る寸前、麟太郎の地を蹴る勢いが落ちた。踏み込みが甘かった分、麟太郎の刀は輝貞まであと一歩で届かない。輝貞の唇がにやりとつり上がる。勝利を確信した者の笑みだ。輝貞の刀が麟太郎の首に突き出される。麟太郎は背後に隠すようにしていた左手で首を庇うように振り上げた。その手には刀の鞘。輝貞の刀を鞘で受け止め、すかさず輝貞の刀を鞘で払い落とす。刀を払われ、輝貞が体勢を崩した。


「とど、め……」


 言葉が尻切れた。

 輝貞は陰惨な笑いを浮かべていた。凍り付きそうなほど残忍な笑み。


「終いだ、麟太郎」


 灼熱が肩で弾けた。右の肩で――。

 口から絶叫が迸った。痛みと絶望に、全身の神経が音を立ててぶち切れた。

 麟太郎の右肩に突き刺さった脇差を輝貞が容赦なく抜く。鮮血が噴き出した。傷口を全力で押さえ、麟太郎は前を見た。そのときになって初めて、自分が刀を握っていないことに気が付いた。麟太郎の刀は、輝貞の腹部に深々と突き刺さっていた。

 輝貞がゆっくりと己の腹から生える異物を見やる。


「……いい刀だ」


 言うや否や、輝貞は腹に刺さった刀を自ら引き抜いた。ぶしゅうっと音を立てて、真っ赤な血が麟太郎の顔まで飛沫しぶいた。

 輝貞が刀を麟太郎の方に放る。カンッ、カランと固い音が響き、血まみれの刀が麟太郎の前に転がった。


「だが、おまえはもう二度とその刀を握れまい」


 淡々と輝貞が告げる。

 右肩がズキンッと激しく痛んだ。麟太郎はうめき声を漏らすまいと、歯を食いしばった。右肩の傷がどれだけ深いかは、麟太郎が一番わかっていた。

 麟太郎の苦渋を存分に愉しもうとするかのように、輝貞が笑おうとした。しかしその口からこぼれたのは嗤いではなく、大量の血だった。ごぼり、とどす黒い血があふれ、地面に落ちていく。

 輝貞は地面に吐いた血をぼんやりと見つめ、何を思ったか、麟太郎を見てにやりと勝ち誇ったような笑みを浮かべた。


「これが武士だ」


 止める間もなかった。

 輝貞は周りを取り囲んでいた妖かしの群れの真っ只中に身を躍らせた。あふれ出る血の臭いに刺激を受けたのか、輝貞が放つ憎悪に惹かれたのか、妖かしたちが一斉に輝貞の体に殺到した。聞くに堪えない音とともに、輝貞の腕が、足が、食いちぎられていく。

 そしてぞっとすることに、食われながら輝貞の口からは狂気に満ちた哄笑が響いていた。


 永遠に続くかと思われた凄絶な輝貞の最期は唐突に訪れた。哄笑がぴたりとやみ、後には異様な静けさだけが漂った。

 目を逸らすことも忘れ、見入っていた麟太郎は、妖かしたちが新たな獲物を求めて散っていく様子に我に返った。


「なんで、なんでこいつらは消えない!?」


 輝貞が死んだいまも妖かしは平然とした様子で、江戸の町に広がろうとしている。

 と、後ろから人が近づいてくる気配があった。


「ずいぶんとボロボロじゃねえか」


 麟太郎よりいくらかましなボロボロ姿の捨助が麟太郎に肩を貸そうとして、ぎくりとたじろいだ。その視線の先は、麟太郎の右肩へと注がれている。

 だが捨助は何も言わずに、麟太郎の左側へ回り込むと、左腕を持ちあげて自分の肩に回した。


「痛て! あのなあ、もう少し丁寧に」


「このぐらい我慢しやがれ! こっちは急いでんだ」


「急いでる?」


 問い返すと、捨助が焦れたように歩きながら言った。


「とっととおまえを回収して、緋里のとこに戻らねえと。あいつが……」


 嫌な予感が胸に立ち込めた。


「緋里がどうだってんだ?」


 捨助がぎゅっと眉根を寄せた。そのひどく苦々しい顔に、不安が膨れ上がっていく。


「おい」


 再度問い詰めようとすると、捨助がふいに足を止めた。


「髪切りだ。あいつは髪切りをしやがったんだ」


 初めて聞く言葉だったが、どうせろくなものじゃないということだけは想像がついた。

 浄化は花魁にとって誇りであればあるほど、周りの人間に苦悩をもたらす。


「髪切りは浄化の中でも最悪だ。花魁の髪と、浄化したい場所を朱で囲んだ地図を一緒に神社に奉納する。体の一部を差し出すから浄化力は桁外れに強いが、花魁が受けるけがれも一番強い」


「……その地図ってまさか」


「江戸の町すべて、だ」


 衝撃が脳を打ちのめした。肩を貫かれ、もうこれ以上の絶望はないと思った。

 まだこれからさらなる絶望を味わわなくてはいけないのか。

 麟太郎は呻くかわりに、捨助の着物を掴んだ。


「どうしてそんなの許したんだ!? おまえだってあいつが」


 言い募ろうとした言葉を飲み込む。捨助の顔は、麟太郎よりもっとひどかった。


「……悪い」


「だああ! いいからもっと急げ!」


 半ば捨助に引きずられるようにしてたどり着いた先、緋里が一人ぽつんと立っていた。

 いまにも儚く消えてしまいそうな頼りなげな姿に、麟太郎は思わず駆けだしていた。


「緋里!」


 緋里がゆるりと振り向く。

 淡雪。そんな言葉がぴったりだった。空を舞っている間しか姿を保っていられず、何かに触れた途端、もともと存在しなかったかのように、ふっと消えてしまう。


「麟太郎……」


 緋里が目を細めた。無事であることを喜んでいるような、これから緋里が行く先に麟太郎がいないことを残念がるような、複雑な表情で。


「緋里、おまえ」


「ふふ。なんて顔でありんすか。わっちを誰だと思っていんす。吉原の昼三花魁、緋里でありんすえ」


 ゆるりとした口調で言い、緋里は笑った。ぞっとするほど美しい笑みだった。

 死を胸に抱き、受け入れられる者だけが放つ最期の光――。


「緋里やめ」


 遅かった。すべてはすでに終わった後だった。


 閃光が走った。目の前に雷でも落ちたかのように強烈な光が炸裂さくれつし、麟太郎の視界は真っ白に染まった。自分が目を開けているのか閉じているのかもわからない。

 光は妖かしを飲み込むようにものすごい勢いで広がり、あっという間に江戸を包み込んでいった。光の中で妖かしは時間が止まってしまったかのようにぴたりと静止している。その白さは真っ白でありながら、雪のような突き放す白ではなく、触れれば暖かささえ感じられそうな、丸みを帯びた白さであった。


 あまりの眩しさに麟太郎がまばたきをした次の瞬間には、あれほど強烈だった光は徐々にやわらいでいき、風にさらわれるようにかき消えた。妖かしは影も形もない。

 呆然とする麟太郎の目の前で、緋里の体がゆっくり倒れ込んでいく。慌てて抱きとめた。


「せい、こう……でありんすな」


 紙よりも白い顔をした緋里がか細い声で言う。


「どうして……どうしておまえだけ」


 それが花魁だから。そう返ってくるとわかっていても、問わずにはいられなかった。

 しかし緋里の口が紡いだ言葉は、まったく別のことだった。


「……麟太郎、切腹など許さないでありんすえ」


 はっとして、緋里の顔を見た。お見通しだと言わんばかりの顔で、緋里は麟太郎を見つめている。


「言ったでありんしょう。わっちはぬしを許さないと。武士として死ぬなど、許しんせん」


 緋里の言葉が貫いていく。

 わかっている。わかっているから、それ以上言ってくれるな。たまらず目を逸らしたい衝動に駆られた。

 だが、緋里の口は次の言葉を告げようとしていた。ぐったりと体を預け、もう口を開くのも億劫そうなのに、その瞳だけはいつまでも強さを失わない。命の最後の灯を宿した目が、麟太郎をしっかりと見つめていた。


「……ぬしは――生きなんし」


 ――それがぬしの償いでありんす。


 衝かれた。

 胸の内側が燃えたようにカッと熱くなった。それは髪切りの浄化の光のように、麟太郎の中でみるみる広がり、足の先から頭のてっぺんまでを埋め尽くしていった。


 償い。


 すべてを失った麟太郎が次に進むべき道を、緋里は示したのだ。罰なのかもしれない。憎しみからなのかもしれない。それでも緋里は麟太郎の死を望んでいない。たとえ恨みの感情からだったとしても、初めて誰かに生きろと望まれたのである。


「いいのか、俺は生きて……」


 ぼんやりと尋ねる。返事を期待して。

 けれど緋里は答えない。


「緋里……?」


 名を呼んだ。返事はない。

 真っ白な顔は透き通るように色を失い、唇に差した紅だけが目にも鮮やかな色彩を放っている。ぴくりとも動かない表情はひどく幼く、そして微かに微笑んでいた。


「おい緋里……」


 その瞬間、悟った。もう、返事はない。

 息が詰まった。かろうじて吸った空気が、絶叫となって口から迸った。


「緋里――――ッ!」


 ふわり、と緋里の香が血生臭い空気を浄化するように香り、風に溶けて消えていった。

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