終章

 江戸は春を迎えた。

 あれほど無残に踏みにじられたことが幻だったようにたくましく復興を遂げ、もうすっかりかつての賑わいと生活を取り戻していた。棒手振ぼうてふりの威勢の良い声や、喧嘩っ早い男の怒声、駆け回る子どもたちの声が響く、泰平の世の再開。


 麟太郎はのんびりとした足取りで、大門へと歩いていた。

 吉原の仲町通りに植えられた満開の桜が風に揺れ、さわさわと微かな音を立てて無数の花びらを散らしている。夜になれば吉原の最大行事である夜桜見物で大勢の人が訪れる。


 道の両脇に立ち並ぶ茶屋から男女の談笑が時折漏れ聞こえてくる。明け六ツの大門が開く時刻まであと少し。朝帰りの客が茶屋で朝粥でもすすっているのだろう。

 戦国の世が終わってから初めて迎えた江戸の危機に、花魁たちが見せた決死の覚悟は、奉行所を飛び越えてお上の耳にも入ったという。幕府が花魁たちの功績を認め、奉行所が出した過酷な規制の大半を鶴の一声で撤廃したことにより、吉原にも客が戻り始めていた。


 江戸の民の間でも、一人の花魁が自らの誇りを懸けて江戸の町を守り抜いたことを、知らない者はいない。

 伝説の花魁――明石屋の緋里。



 舞い散る桜に目を細め、麟太郎は雲一つない青空を見上げた。

 今日、麟太郎は吉原を出る。

 文字通り、吉原を出ていくのだ。密偵として吉原にこの上ない不義を働いた麟太郎は、陰間かげまに堕とされても、殺されてもおかしくはなかった。だが麟太郎は捕えられるどころか、明石屋に連れ戻され、吉原が立ち直るめどがつくまで、無給で働くことで許されたのだ。

 なぜそんな異常ともいうべき事態になったのか、麟太郎は決して教えてはもらえなかったが、教えてもらえないからこそ、ある程度の予想がついた。


 吉原で最高の権威を持つのはいつだって花魁であり、明石屋は伝説の花魁を抱えた第一級の大見世である。

 明石屋の妓楼の前で麟太郎を見送りに来たのは、怪我が治り戻ってきた小紫と、彼女に引っ張られるようにして連れてこられた不貞腐ふてくされ顔の捨助だった。


「……本当にいってしまうのでありんすか?」


 表情の変化に乏しい小紫の顔が、見ようによっては寂しそうにゆがめられた。


「ああ」


「何いってやがる。これでようやく清々するってもんじゃねえか」


「そりゃこっちの台詞だ。いっくら稽古つけても腕の上がらない弟子を持つ大変さが、よおくわかったからな」


「なんだと!」


 捨助がいきり立つ。


「おめえの教え方がなってねえんだ! ちょっと腕が立つからって調子に乗りやがって。どうせ奉行所に行きゃ、おめえなんぞ井の中の蛙だ」


「悪いが、俺の腕は奉行所でも中の上だ」


 悔しそうに歯噛みする捨助の横で、小紫がぽつんと呟いた。


「もし……もし緋里姐さんがいたら、ぬしは吉原に残りんしたか」


 ちくり、と目の奥が痛んだ。


「いや、きっと……答えは変わらない。緋里がいてもいなくても、俺は」


「そりゃそうだろうぜ。だってこいつは武士になりたいがために、俺たち吉原を売るような奴だ。奉行所が定廻じょうまわり同心にするなんつったら、犬畜生のように尻尾振って飛びつくに決まってんじゃねえか」


 捨助が嫌味と恨みがましさ満載の視線を寄越す。


「犬畜生って、あのなあ……」


「事実じゃねえか」


 言い返す代わりに、麟太郎はため息をついた。

 未曽有みぞうの危機を引き起こした張本人が、橘藩次期藩主の輝貞だと判明するのに時間はかからなかった。橘藩筆頭家老の伊右衛門は、輝貞の暴挙を止めるため、直接幕府の上層部に掛け合っていたらしい。誰より橘藩のことを思って尽力し、輝貞を支持してきた男によって、橘藩が改易かいえきとなったのはなんとも皮肉な話だった。


 そしてどこからどう話が伝わったのか、その輝貞を止めた者として麟太郎の名が上がり、このたび奉行所の定廻り同心として召されることになった。

 定廻り同心といえば、れっきとした武士の身分である。武士の身分を諦めた矢先に、武士に取り立てられるなど、これまた皮肉な話であった。


「……じゃあ、そろそろ」


 麟太郎がそう言うと、捨助は鼻を鳴らした。


「はん、二度とその面を見せんなよ」


「いつでも遊びに来ておくんなんし」


 いつの間にそんな懐かれたのか、小紫が名残惜しそうに麟太郎の袖を引っ張る。


「ああ。そんときゃ安くしといてくれよ」


 そっぽを向いてこっちを見ようともしない捨助と、小さく手を振る小紫に見送られ、麟太郎は一年弱を過ごした明石屋の妓楼を後にした。

 それからまるで見納めとでもいうようにゆっくりと仲の町を歩き、いよいよ大門へと差し掛かろうとしたときだった。


 ぴたりと足が止まった。

 開け放たれていく大門の向こう、一つの駕籠かごがあった。いままさに到着したというように、駕籠かきが地面に下ろす。医者以外は何人も、たとえ大名であろうとも駕籠に乗ったまま大門を通ることは許されない。一見すれば駕籠に不自然なところはないが、時間がおかしかった。大門が開くと同時に訪れたところで、張見世はやっていない。とんだ無作法者の可能性もあったが、麟太郎はなぜか確信していた。


 駕籠かきが御簾みすを上げる。

 下駄をはいた細い足首がすっとのぞき、次いでゆっくりとした動作で、乗っていた人物が姿を現した。


 ああ――。


 麟太郎は心の中で息をついた。呼吸が苦しくなるほどの期待と恐怖が入り混じった。

 麟太郎は足を止めない。一歩、一歩、大門へと、大門の向こうで待つ人物へと近づいていく。

 まるでそこが目的地というように、麟太郎は真っ直ぐそちらに向かって歩いていた。


 互いの視線はとっくに交錯している。繋がり、絡み合って、目を逸らせない。

 もう目の前、というところで麟太郎は立ち止った。


 ――伝説の花魁、緋里の前に。


 緋里の目に麟太郎が、麟太郎の目に緋里が映っている。


「……おまえにだけは会いたくなかった」


 本音だった。

 緋里が口端に深い笑みを浮かべた。


「そうでありんしょうな」


 会話を継ぐ気のない緋里の返事に沈黙が落ちる。

 緋里は得も言われぬ微笑をたたえている。その顔は青白く、やせ衰えた体は強い風が吹けばふらりと倒れそうなほど頼りない。そのくせ凛とした気配だけは出会った頃のまま、いまも変わらない。

 それがかえって、死を目前に控えた者が放つ異様な覇気のように見えて痛々しかった。


「……体、大丈夫なのか」


 沈黙に堪えきれず口にした質問に、一瞬で失敗を悟る。

 大丈夫なわけがない。緋里の体は髪切りをする前でもすでに限界だったのだ。そんな状態でけがれの度合いが大きい髪切りをした緋里は、いまこうして生きているのが不思議なほどだった。


「まだ生きていんすな」


 けろりと言ってのける緋里に、思わず脱力した。


「生きてるって、あのな……。大体、どうしてこんなところにいるんだ。空気の良いところで療養させるって楼主が言ってたのに」


 緋里がふっと笑って目を伏せる。緋里らしくない自嘲的な笑い方だった。


「小紫と捨助から文がありんしてな。ぬしが幕府の犬になると」


 再び顔を上げた緋里の目に先ほどのかげりはない。その代わり複雑な色が宿っていた。

 その胸中に何を思っているのか、麟太郎には知る術がない。

 なんと言っていいのかわからず黙り込む麟太郎の顔に、ふと緋里の左手が伸びる。高下駄を履いていない緋里は当然、麟太郎より小さい。わずかに見上げる形で麟太郎の顎を掴むと、視線を逸らすことは許さないとばかりに、真っ直ぐ見つめてきた。


「わっちは花魁。ぬしは武士。……初めから交わるべきではなかったのでありんす」


 これまで見たどの緋里よりも決然とした瞳。そしてその決して揺るがない瞳に、つと悲痛がよぎったのを麟太郎は見逃さなかった。


「緋里」


「言ってくれるな、麟太郎」


 顎を掴んでいた緋里の指が、麟太郎の唇に押し当てられる。


「……それ以上、言わないでおくんなんし」


 どこか懇願こんがんするような声音だった。

 緋里の目に涙など一滴もありはしないのに、なぜか麟太郎には緋里が泣いている気がした。


 言葉を奪われた麟太郎にできることは、もう何もない。

 麟太郎が諦めたことを悟ったように、緋里の手が離れていく。その手のぬくもりが失われていくことに、猛烈な喪失を感じた。

 だが引き止めることはできなかった。

 麟太郎は吉原を出ていくのだ。己の意思で。


「俺は武士になる。武士になって生きる」


 それだけ告げた。

 緋里はじっと麟太郎を見つめたまま、何も言わない。

 麟太郎は拳に力を込めて、大門をくぐり、緋里の横をすり抜けた。すれ違う瞬間、前を向いたままの緋里が目を閉じたのが見えた。


 振り返りたい衝動に駆られた。いま振り向いたら、果たして緋里はこちらを見ているのだろうか、それとも背中を向けたままなのだろうか。

 知りたくて仕方ないのに、意思に反して足は前進を始めていた。地面を踏みしめるようにゆっくり歩いていた歩調が次第に早まる。

 麟太郎は前を見た。

 抜けるような青空がどこまでも広がり、春のやわらかな光が目に沁みた。




 遠ざかっていく足音を背中で聞きながら、緋里はいつまでも大門の前に立っていた。足音が完全に聞こえなくなった頃、閉じたままの目じりから一筋の光が流れ落ちた。引き結んでいた唇から力が抜けていく。

 緋里はゆっくりと目を開いた。


「さようなら、麟太郎――わっちの最後の花魁護衛」

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花魁護衛に堕ちました 彩崎わたる @ayasaki

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