第20話 散る花

 翌日、事件は起きた。

 麟太郎は緋里の部屋で、起請文を書く手伝いをさせられていた。

 いつもなら小紫が手伝っているのだが、珍しく姿が見えなかったらしい。どうせ暇だろうと、麟太郎が駆り出されたのである。


 緋里がしたためた起請文を部屋の端から並べていく。乾いた頃合いを見計らっては片付けていかないと、次々に緋里が書き終えていくため、置き場がなくなる。その上、ちょっとでも起請文を踏んづけようものなら、なぜか毎度目ざとく見つける緋里の叱責しっせきが飛ぶ。


「麟太郎! また踏んだでありんしょう!」


「小指の先くらいだろうが!」


 地味に大変な仕事にうんざりしながら、手にした起請文を並べていると、物凄い勢いで階段を駆け上ってくる足音が聞こえた。

 緋里が呆れたようにため息をつく。


「あの足音は捨助でありんすね。まったく行儀の悪い」


 廊下を真っ直ぐ走ってきた足音が、緋里の部屋の前で滑り込むように止まり、壊さんばかりの力でガラッとふすまが開かれた。


「捨助。声ぐらいかけ」


「小紫が――」


 緋里の注意と捨助の声が重なる。


「え?」


 にわかに緋里の声が緊張を帯びる。

 捨助はあえぐように息を継ぐと、苦痛を吐き出すように告げた。


「――小紫が斬られた」


 ひゅっ、と隣の緋里から声にならない悲鳴が上がった。手から筆がぽろりと落ち、着物にじわりと染みをつくる。

 頭が真っ白になっていく感覚があった。視線が捨助の上で固定されたまま、動かせない。


「うそだろ……」


 呆然と呟くが、この上なく切迫した捨助の顔がすべてを物語っていた。

 と、緋里がおもむろに立ち上がった。目の焦点が定まらないまま歩き出し、まだ乾いていなかった起請文を踏みつけていく。


「おい、どこに行く気だ」


「小紫……」


 虚ろに呟き、緋里は捨助の横をすり抜けようとする。


「待てよ!」


 慌てて捨助が緋里の腕を掴む。


「場所だってわかんねえで、どうやって行く気だ」


「どこなんだ」


 問うと、捨助は緋里の腕を掴んだまま、麟太郎を見る。


「白木屋だ。かりんとうの」


 緋里が大きく目を見開き、足から力が抜けたようにぺたりと座り込んだ。


「お、おい」


 顔面蒼白で緋里が震える。


「――わ、わっちのせいだ……」


「どういうことだ?」


 捨助が目線を合わせるように緋里の前にしゃがみ込む。


「わ、わっちのせいで小紫が、小紫が……」


 緋里はガタガタと震える両手で捨助の着物を掴んだ。


「わっちが甘いもの食べたいなんて言ったから、きっと小紫は……いやああぁ!」


 堪えきれなくなったように緋里が顔を覆って叫ぶ。

 麟太郎は棒を飲んだように動けなかった。

 こんなに取り乱した緋里を見たのは初めてだった。思考が停止しそうな衝撃があった。いつだって余裕を見せ、迷いなく、迅速な行動をしてきた緋里が、立ち上がることすらできずに泣き叫んでいる。


「緋里、しっかりしろって!」


 捨助が必死になだめるも、緋里の耳には届いていないようだった。子供のようにしゃくりあげた緋里と目が合った。

 その瞬間、胸が締め付けられるような痛みが走った。心臓をぎゅっと握りつぶされるような鋭い痛みが。

 弾かれたように足が動いた。


「あ、おいっ!」


 捨助の慌てた声と入れ違うようにして、麟太郎は廊下に出た。


「俺が行く!」


 そう言い捨てて階段を駆け下りる。白木屋なら何度か行ったことがある。道はわかる。

 捨助のもたらした報によってバタバタしている明石屋の一階を突っ切り、外へと飛び出した。


 夜見世の準備をし始めた仲の町通りを全力で駆け、大門をくぐる。日の暮れた晩秋の風が肌に吹きつけてくる。もう外はかなり暗い。前だけを見て走っているので、何度も足を取られて転びかけた。それでも速度を緩めるわけにはいかなかった。


 もしかしたら、まだ間に合うかもしれない。まだ、まだ――。

 走りながら緋里の悲痛な声が、姿が、よみがえる。


 緋里は自分のせいだと己を責めたが、それは違う。違うことを麟太郎だけが知っている。なぜならこれほどまでに吉原を追い詰めたのは、他ならぬ麟太郎自身なのだ。密偵として吉原に不利な情報を盗み出し、輝貞に渡してきた。結果、源平派は息を吹き返し、江戸を取り巻く世相の空気に敏感な過激な者たちが、これまでの鬱憤うっぷんを晴らすように大胆な行動に出るようになっていた。今回の件も十中八九、過激な者たちの仕業に違いない。


 つまるところ、間接的とはいえ麟太郎のしたことが巡り巡って、小紫を害したのだ。


 白木屋の周辺は、奉行所の者やら野次馬やらで人だかりができていた。


「おい、通してくれ。吉原の者、だ……」


 言葉の最後が途切れる。

 目の前でいままさにこもにくるまれたものが戸板に乗せられ、運ばれようとしていた。

 足元からぞっと恐怖が立ち上ってきた。


 まさか、あれが小紫なのか――?


 立ち止りそうになる足を叱咤し、前へと進んでいく。周りにいた人たちが気まずそうな表情で、麟太郎を通すように左右に割れていく。

 人の壁を抜け、麟太郎はついに最前列に躍り出た。

 呼吸が詰まった。辺りには濃い血臭が漂っていた。


「こ、むらさき……?」


 ぽつりと呟くと、菰を運んでいた男たちがちらりと麟太郎を見た。


「花魁の知り合いか?」


「……ああ」


 力無く頷く。


「花魁の嬢ちゃんは医者に運んだ。かなり危ないがまだ生きてる。こっちはもう……」


 男はそう言って菰の一部をはらりとめくった。


 カッと見開いた目と目が合った。無念の一言を強く訴える血走った双眸そうぼうが麟太郎を見ていた。

 見知った顔、明石屋の花魁護衛の一人であった。気さくな性格で、花魁護衛の輪に混じろうとしない麟太郎に何かと声をかけてきては邪険にされ、それでも懲りずに何度も誘ってくる奴だった。


「どうして」


 ほとんど独り言のように言葉が漏れていた。


「通りがかった奴の話じゃ、この男が花魁の嬢ちゃんを守ったらしい。数人の男たちがいきなり花魁の嬢ちゃんに斬りかかってきたらしくてな。守ろうとして背中を斬られて、なんとか応戦したが、手傷を負った上に多勢に無勢。最後は滅多切りにされたって話だ」


 ひでえ話だ、と男が憤る。

 麟太郎はぎりっと奥歯を噛みしめた。

 猛烈な怒りが沸いた。体の中で嵐のように激しく風が逆巻き、全身の毛穴から勢いよく噴き出していく。握りしめた拳の中で爪が皮膚に食い込み、血が滲むのがわかる。

 卑怯にもほどがある。不意打ちで斬りかかった挙句、たった一人を数人で滅多斬りにするなんて。そんな奴らが武士なのか。やるせなさと怒りで反吐が出そうだった。


「……下手人は?」


 低い声で尋ねれば、麟太郎のただならぬ気配を察したのか、男が気圧されたように一歩後退った。


「し、仕返ししようってのか? そいつはやめた方がいい。きっと源平派の仕業だ。下手すりゃ黒羽織の奴らかもしれん」


「黒羽織党……」


 麟太郎は水を浴びせられたような衝撃を受けた。


 黒羽織党。輝貞の率いる過激派。麟太郎が情報を流している先――。

 麟太郎の流した情報が、麟太郎の周りに及ばない保障なんてないのだ。麟太郎の密偵としての働きが、等しく吉原すべてに災厄として降りかかる。そんな当然のことにいまさら気がついた。


 思わず呻き声を漏らした麟太郎を、男が窺うように覗き込んでくる。


「……おい大丈夫か? ひでえ顔してるぞ」


 力無く頷き、ほとんど忘我ぼうがした状態でふらふらと歩き出す。

 自分は武士になるために吉原にきたのだ。ここで情に流されたら本末転倒である。


「俺は源平派だ。源平派の武士になる。あと少しなんだ」


 懇願こんがんするような麟太郎の声はすみを流したような夜闇に吸い込まれ、消えていった。

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