第19話 疑心の風

「いいかえ、離すでありんすよ!」


 その日も密偵として江戸を嗅ぎ回り、昼前に戻ってきた麟太郎は妓楼の二階へと続く階段前で、ふと足を止めた。二階からやたらと緊迫した声が聞こえる。


「はい、緋里姐さま!」


 返事をする声は小紫のものだが、こちらもいつになく強張っている。

 いったい何事かと階段を上がれば、二階の廊下に急激に身長が伸びた小紫が上半身をゆらゆらと揺らしながら立っていた。


「な……」


 一瞬、言葉を失いかけるが、よく見れば小紫の足には高下駄。童女にしか見えない小柄な小紫が緋里と肩を並べる高さになっている。高下駄を履いているというよりは乗っているという方がしっくりきそうなほど、その姿は違和感だらけだが。


「にしても、危なっかしいな……」


 小紫がよろめきながら、一歩一歩と足を踏み出していく。上半身が前にのめったかと思うと、今度はぐらりと横に傾く。見ている方が手に汗を握りそうな不安定ぶりである。


「小紫、集中でありんすえ。右、左、そうゆっくり。足を出すときは大きく」


 緋里の指導が飛ぶが、当の小紫は足を前に出すだけで精一杯らしい。真剣そのものの表情で、額からは一筋の汗が流れていく。


「はは、これはこれで味があっていいんじゃないか。花魁道中っていうより大道芸みたいで」


 軽い冗談のつもりで放った言葉に、小紫の動きがぴたりと停止する。相変わらずの無表情で固まったまま、まばたき一つしない。


「こ、小紫。麟太郎の言うことなんか気にすることありんせんよ」


 緋里が慌てたように声をかける。

 だが小紫は動かない。緋里がぎろりと麟太郎の方を睨んだ。


「麟太郎! 小紫に謝りなんし!」


「な、なんだよ。ちょっとからかっただけだろ。それに小紫だって別に怒ってないじゃないか」


「これはかなり怒っていんす」


「怒ってる? え、どこらへんが?」


 改めて小紫を見るがいつもとまるで変わらない。見事なまでに感情がすとんと落ちている。


「わっちにはわかりんす。小紫はこう見えて頑固なんでありんすから、早く謝りなんし」


 小紫がすっと姿勢を正した。


「緋里姐さま。わっちは別に気にしてんせん」


 そう言うが早いか、小紫が一際大きく一歩を踏み出した。右足が廊下を擦るように弧を描き、再び着地しようとした瞬間、軸足がぐらりと揺れた。


「きゃ」


 小さな悲鳴が上がり、小紫が全身の体勢を崩す。


「小紫!」


 緋里が慌てて手を伸ばす。抱きとめる形で小紫を受けるが、勢いを押し殺しきれず、数歩たたらを踏み、壁に背をぶつけてなんとか一緒に転ぶことを免れる。


「おいおい、大丈夫か」


「わっちは。小紫、怪我してないでありんすか?」


 緋里が心配そうに小紫を覗き込むと、緋里に抱きとめられる形になった小紫は照れたように顔を赤くした。


「はい。緋里姐さま」


 幸せそうに頷く。緋里に抱きしめられていることがよほど嬉しいらしい。


「一回、休憩にしなんしょう」


 緋里の言葉で部屋に戻る二人の後に、なんとなく麟太郎も続く。


「ああ、たまには甘いものが食べたいでありんすなあ」


 ぽつりと緋里が洩らした言葉に、小紫が密かに目を輝かせて緋里を見上げた。




 休憩を挟んで再び修練を始めた緋里らと別れた麟太郎は、暇を持て余して仲の町をぶらついていた。暮れ六ツ少し前。本来なら吉原がにぎわい始める刻限だが、客らしき男はほとんどいない。まれに見かけても大抵は足早に、目的の妓楼へとまっしぐらに向かう姿である。もっともまだ夜見世が始まっていないのだが、それ以前に張見世を覗こうとする客なぞもはやいない。


 花魁の花落ちは感染うつる――。


 そんな噂が立ったのは、奉行所が新たな規制を出して、少し経った頃だった。

 どこからともなくそんな話がささやかれるようになり、末期の花落ちにかかった花魁が隠されることなく療養所に連れていかれる様子を見た町人たちによって、噂は爆発的に広まった。


 恐怖を苗床にしているだけ質が悪く、花魁はおろか吉原の者が町を歩けば、町人たちは花落ちを恐れてそそくさと周りを離れていく。桜花派の店からももう来ないでほしいと告げられ、吉原の外で自由に買い物をすることもままならない。


 京町一丁目の辺りに来たところで、一軒の妓楼前に男たちが集まっていた。むろん客ではない。奉行所の下っ引たちである。

 一気に胸の内が重くなる。見なかったことにしたいのに、足が勝手にそちらへと進んでいく。


「妓楼検めである! 花落ちの花魁がいると情報があった」


 妓夫ぎゆうが慌てて止めるも、奉行所の下っ引は問答無用とばかりに妓楼に押し入る。中で花魁たちの悲鳴が上がり、しばらくして見世の勝手口から下っ引に引きずられるようにして一人の花魁が出てきた。


「お願い、お願い! 助けておくんなんし! いやぁあ、療養所なんて行きたくない!」


 半狂乱になって泣き叫ぶ花魁は、一目で花落ちとわかるほどに容貌が崩れていた。ぺしゃりと潰れた鼻から血が流れ、げっそりとこけた頬の皮膚はひどくただれていた。

 鼻と口を布で覆った下っ引が花魁を両脇から強引に立たせようとするが、寝たきりで足が弱っていたのか、よろよろと老婆のように足元がおぼつかない。そんな花魁の様子を楼主と思しき男が悔しそうに見つめている。


 なんとも苦い思いがこみあげた。


 花落ちに怯える町人たちによる密告が増え、吉原側も当初はすべて外部の人間の仕業だと思っていた。だがある大見世の花魁が連れていかれたことで、事態は一変した。


 楼主はまず客を疑った。だが調べれば調べるほど、吉原内部の者しか知り得ない情報が漏れている。かと言って横の繋がりを強みとする吉原だけに、大っぴらに他所の妓楼を疑うわけにもいかない。結局密告者は見つからず、吉原の中に疑心暗鬼の風が吹き込んだのである。


 隙間風はやがて吉原全体を縦横無尽に走る見えない亀裂になった。表面上は互いを信じているふりをしつつ、腹の中では他所の妓楼を堕とし、自分たちが生き残る術を巡らせる。

 吉原の強さの根幹は内部から瓦解がかいしようとしていた。


 そして人のはらわたを食い荒らす寄生虫のように、吉原に亀裂を入れたのは他でもない、吉原に潜り込んだ密偵である麟太郎だった。


 明石屋の使いで偶然、とある大見世に行った。中で用を済ませ、帰ろうとしたときだった。嗅いだことのある異臭がした。一瞬で思い出した。花落ちに罹った者の息の臭い。もともと麟太郎は人より異常に鼻が利く。どこにいるかまではわからなくても、妓楼が匿っているのは確実だった。麟太郎は手柄欲しさにそのことを密偵の報告に加えた。


 その翌日だった。大見世に妓楼検めが入ったと、明石屋にも知らせがあり、麟太郎は様子を見てくると言って飛び出した。行くと、花魁が引っ立てられているところだった。見たことのある花魁だった。緋里に負けず劣らずの器量良しだった面影はまるでなく、無残な姿ではあったが、その花魁は泣き声一つ上げずに静かに連れて行かれた。


「ほら、手間を掛けさせるな!」


 下っ引たちが乱暴に花魁を連れて行く。駕籠に入れてひっそり連れていくのではなく、あえて町の者に花落ちの醜態しゅうたいを見せつけるようにそのまま連れて行く。花魁の悲鳴がすすり泣きに変わり、やがてその姿が見えなくなった。


「くそったれが。どこの妓楼がうちのことを漏らしやがったんだ。覚えてやがれ」


 楼主が拳を握りしめて見世の中に戻っていく。


 胸の内にうっすらと昏い達成感が漂う。麟太郎はまた確実に密偵として役に立ったのだ。妓楼同士に猜疑心さいぎしんを植え付け、吉原崩壊の一助を担う。一度目以降、輝貞からは花落ちの花魁を探すよう命令が下りていた。そして麟太郎は源平派の密偵として期待に応え続けた。


 だが密偵としての功績が増えれば増えるほど、麟太郎の気はふさいでいった。

 背後に花魁たちの死体が積み重なり、吉原からの憎悪が降り積もっていく気がした。いまでは昏い達成感を覚えることが、より嫌悪を深めさせる。


「俺はいったい何をしてるんだ……」


 武士の身分が欲しくて、武士の世のために密偵をして、だが果たしてこれで本当によかったのか。どこかで間違った気がしてならなかった。

 しかし引き返す道はもうない。ここで密偵をやめてしまったら、二度と武士の身分を手にする機会はないのだ。花魁護衛にまで堕ちたことも、これまでしてきた行為も、すべてが無駄になってしまう。


 麟太郎を置き去るように吹き抜けていく晩秋の風は冷たく、腕に鳥肌が立った。

 夜見世の始まりを告げる見世清掻みせすがかきが物悲しく響いた。遠くから見れば、灯を入れた吉原だけがぽっかりと、江戸の暗闇に浮かび上がっていることだろう。

 麟太郎は足早に仲の町通りを歩いた。耳の奥では先ほどの花魁の泣き声が何度も何度もこだましていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る