第21話 立場

 小紫が襲撃されてからひと月が経とうとしていた。

 一時は危ういとされたものの小紫はなんとか一命を取り止め、現在は楼主の知り合いの医者の元で養生している。ただ、背中に受けた傷は残ってしまうと、遣手が言っていた。


 あの日以来、緋里は一人で考え込むことが多くなった。話しかければ普通に言葉を返してくるが、心は別のところにあるようでどこか上の空だった。


 緋里は自分を責めている。

 あのときのように取り乱すことはなく、みなの前では何事もなかったかのように平然としているが、それがよりいっそう緋里の罪悪感に拍車をかけていた。


 緋里が周りに相談できる性格なら少しは違ったかもしれないが、そんな性格ではないことは、さすがにもう麟太郎でもわかる。辛ければ辛いほど、緋里はすべてを内側に押し込めて絶対に隠そうとする。自分の弱いところを見せるのを何よりいとうのだ。

 緋里の生い立ちは知らないが、いままでそうやってきたのだし、今回のこともすべて緋里自身の中で解決する気かもしれないが、見ている方は堪らない。


 本当なら麟太郎が責められるべきなのだ。だが、緋里はそんなことを知らない。責めるべき対象が目の前にいることも知らずに、見当違いにも自分を責めている。

 何度も本当のことを告げたい衝動に駆られた。麟太郎はいまも密偵働きをしている。こんな緋里を前にしながら、己がために動き続けているのだ。罵られ、最低だと蔑まれた方がよっぽど楽だった。


「最低だな……」


 自分がどんどん汚いものになっていく。花魁護衛よりも陰間よりも、もっと汚いものに。




 そうこうするうちに季節はすっかり冬になり、江戸の町に容赦のない寒風が吹きすさぶ。

 野暮を嫌う江戸の町人が粋と防寒の狭間はざまで葛藤する中、麟太郎の中では密偵行為に対する嫌気が強くなっていた。


 吉原の横の繋がりはもはやズタボロで、密偵としては潜り込んだ当初に比べ、格段に動きやすくなった。麟太郎が暗躍すればするほど、吉原の衰退は加速していく。妓楼を廃業する者も出始め、そのしわ寄せは残って踏ん張っている妓楼に、果ては花魁へと向かう。花落ちに罹る花魁が増え、吉原のかつての絢爛けんらんさは薄っぺらい、形だけのものになっていた。


 弱った動物をなぶり続けることが、これほど過酷なものだとは思わなかった。始終、気が鬱々うつうつと塞ぎ、あれほど輝いていた武士の身分が色あせた枯葉のように思えてくる。

 果たして自分の中にある、武士になりたいという思いはあの頃のままだろうか。だんだんとわからなくなっていた。


 景色が色を失い、どこか虚しさを帯びた江戸の町を、麟太郎は気怠い気分で歩いていた。密偵として集めた情報を、山谷堀の船宿にいる輝貞配下の男に渡した帰りである。


 真っ直ぐ妓楼に帰る気になれず、ぶらぶらと辺りをほっつき歩く。途中でふと気づき、刀が落とし差しになっていることを確認した。この差し方なら鞘が体に平行になるため、人とすれ違う際に鞘同士がぶつかることを防げるのだ。


 最近の江戸の町は何かと物騒であった。妖かしが増えたこともあるが、人間同士のいさかいも多い。幕府の井伊大老が始めた弾圧が発端であるとも言われ、江戸の町にはどことなく不穏な空気が漂っている。町中で喧嘩をふっかけるやからが増え、誰かを罵る独り言を大声でわめきながら歩いている者もいる。まるで江戸中に恨みつらみが沈殿しているかのようだった。


 人通りの多い道を抜けると、辺りは一気に閑散とする。こういう場所は妖かしが出ることも多く、余計に人が寄り付かなくなる。一人でぶらつきたいときにはうってつけの場所だった。


 と、川沿いの道から女の怒声が聞こえた。声に聞き覚えはないが、その言葉はもはや耳に馴染んでしまっている。花魁のくるわ言葉である。


「手出しは無用でありんす!」


 駆けつけてみれば、いつか緋里と浄化に行ったときにも起きた、花魁と武士の妖かし退治の手柄争いの真っ只中であった。三十路越えの見るからに武士の出で立ちをした大柄な男が、威圧するように花魁を見下ろしていた。見れば、まだそばに妖かしも残っている。


「ったく、先に妖かしを退治しろよ」


 舌打ちをしつつ、麟太郎が走り込むと、花魁と言い争っていた武士がすらりと刀を抜いた。

 武士が一足飛びに妖かしに斬りかかる。それなりに腕に覚えはあったのだろう。妖かしの腕をぶつりと斬り落とし、立て続けに胴を横なぎに払った。

 妖かしが血を噴いてどっと倒れ込む。

 武士は血のついた刀を一振りして血を落とすと、にやりと笑って麟太郎を見た。


「せっかくのおいしいところを持っていかせるかよ」


「はあ? 俺はそんなつもりじゃ……」


 麟太郎が抗議しようとすると、横から花魁護衛の男が鼻息も荒く、武士に詰め寄った。


「ふざけんなよ。まさかいまので、てめえの手柄だとかぬかすんじゃねえだろうな」


 武士が鼻で嗤う。


「おまえの飼い主の手にあまっているようだったんでな。この俺が代わりに退治てやったまでだ」


「冗談じゃねえ! 最後の一匹になるまで待ってから出てくるなんざ、ただの盗人じゃねえか」


 言って花魁護衛が武士の襟首を掴み上げた。

 武士は掴まれた襟首をじっと見つめ、舌なめずりをするように花魁護衛の男に視線を移した。その目にはどこか狂気が滲んでいる。

 咄嗟に、まずいと感じた。


「お、おい。手を」


 離せ、と言おうとした麟太郎の前で、花魁護衛の脇腹辺りから血がほとばしった。

 花魁が甲高い悲鳴を上げた。

 花魁護衛は脇腹を押さえてよろよろと後ろに下がる。その肩を花魁が支えたときだった。

 武士が血塗れた刀を再び振り上げた。止める間もなかった。斜めに振り下ろされた刀は、花魁護衛の肩口からへそ辺りまでをばっさりと切り裂いていた。


 先ほどとは比べようもないほどの悲鳴が、花魁から上がる。何とか支えようとする花魁の努力もむなしく、花魁護衛の体がずるずると崩れ落ちていた。絶命しているのは誰の目にも明らかだった。


 あまりのことに言葉を失う麟太郎に向かって、何を思ったのか、武士がにたりと歯をむき出して笑った。まるで自分の腕を自慢するかのようであった。


「こ……この人でなし!」


 花魁が半狂乱になって武士に掴みかかった。


「ほお、おまえもこの男の後を追うか?」


 武士が下種げすな笑みを浮かべた。


「やれるものならやってみなんし! わっちはぬしなんぞ怖くありんせん!」


 泣き喚きながら武士を滅茶苦茶に叩く花魁の声が、麟太郎を我に返らせた。


「やめろ!」


 麟太郎は暴れる花魁を後ろから羽交い絞めにした。それでも暴れようともがく花魁は、近くで見ればまだ若い。緋里と同じくらいか。そのことが余計に麟太郎の腕に力を込めさせた。


「離して! こんな、こんなけだもの! わっちが殺してやる!」


 鬼のような形相で暴れる花魁を見て、武士が嗤う。


「おうおう、いい様だな。浄化だなんだとぬかしても、しょせんはただの不浄女。男に押さえられちまえば何もできまい。不浄女の分際で江戸を守るなぞ、笑止千万。江戸の面汚しが!」


 ふつり、と怒りが泡立った。

 麟太郎は花魁から腕を離し、間髪入れずに、花魁の頬を張った。


「おまえまで死んでどうする!」


 花魁がびくりと身をすくませ、動きを止めた。

 麟太郎は武士の方に向き直った。余裕を見せていた武士の嗤いがぴたりと止まり、その視線が麟太郎の腰の刀へと向けられる。途端に武士の顔が真剣味を帯びた。


「なんだ、やる気か?」


 剣呑けんのんな目つきをしながらも、武士の声には警戒の色が強い。遅れながら麟太郎の刀の差し方に気づいたのだ。落とし差しはいざというときに刀が抜きづらく、剣術の腕に自信がある者の差し方である。


「やってもいい気になってるさ。江戸の面汚しはどっちだ。この武士の面汚しめ!」


 ふつふつと怒りが煮立っていた。刀を握る者としてこの武士の行動が許せなかった。

 武士の目がわる。どうやら本気らしい。

 麟太郎はゆるく腰を落とした。


「ぬかせ、小僧!」


 そう叫び、武士が麟太郎目がけて刀を振り下ろす。

 麟太郎はすばやく鯉口を切ると、抜きざまに武士の刀を受け止めた。刃と刃がぶつかり合う音が響き、いっとき鍔迫つばぜり合いの形になる。ギリギリと刃が擦れ合い、武士の顔が間近に迫る。

 ぎらついた目には、ありありと花魁を嫌悪する光が宿っている。

 武士が下卑た笑いを浮かべる。


「なかなかやるじゃないか。なぜ花魁なぞを守る?」


 ハッと息を飲んだ。思わず目を瞠った。腕から、ふっ、と力が抜けかけ、一気に押し切られそうになった。眼前に刃が迫り、麟太郎は慌てて後ろに跳んだ。


 ――なぜ?


 どうして自分は見ず知らずの花魁を守っている?


「俺は……」


 優勢と思ったのか、武士が余裕を取り戻した。


「おまえも武士の端くれなら、武士の誇りを持て。妖かし退治は武士の役目。それを花魁ごとき不浄女に奪われ黙っているなど、それこそ武士の名が泣くぞ」


 ぐさりと刺さった。本当に刀に刺し貫かれたのではないかと思うほどの痛みが走った。

 本物の武士なら、武士の誇りを持つ者ならば花魁は守らない。たとえ花魁に是があり、武士に非があろうとも、立場を守る。それが武士の在り方。


 しかし、それが本当に自分の望んだ武士の在り方なのか――?


 わからない。わからないが、一つだけ確実に違うことがある。


「……違う」


「ああ? なんだと?」


「俺はおまえとは違うっ!」


 麟太郎は気合をはき、刀を真っ直ぐに突き出した。武士はそれを間一髪のところで、横に飛んで避けた。が、武士が体勢を立て直す前に、麟太郎の第二撃目が武士の手元を打っていた。


「うおっ」


 武士が声を上げると同時に手にしていた刀が弾き飛んだ。音を立てて刀が地面に転がる。

 武士は呆気にとられたように打ち落とされた刀を見ていたが、狼狽えたように脇差に手を伸ばした。

 麟太郎はすかさず相手の喉元に刀を突きつけた。


「無駄だ。……さっさと行け」


 言って麟太郎が刀を引くと、武士は憎悪に淀んだ目で麟太郎を睨み、走り去っていった。


 知らずため息が漏れた。刀を鞘に収めつつ花魁に目をやると、花魁は殺された護衛にすがりついてすすり泣いていた。たまらなく苦い気持ちになった。


 あの武士の言動のほとんどは納得できなかったが、すべてが間違っていたわけでもなかった。

 武士が武士の立場を守る。その一点だけは麟太郎にも理解できる。麟太郎も武士の立場を憂う者である。


 何が正しくて、何が間違っているのか。

 武士とはいったいどんなものだったのか。

 自分はいまどちら側にいるのか。


 密偵をしてまで手に入れんとしている武士の姿がだんだんと形を失い、おぼろになっていく。

 代わりに先ほどの花魁の鬼気迫る顔が鮮明に思い出された。たとえ武士に一刀両断にされようとも一歩も引かない強い瞳。どうしてあれほどの覚悟が見せられるのか。

 あの花魁が守ろうとしていたのは――。


 そこまで考えて胸の辺りにちりちりとした痛みが走るのに気づいた。小さなほむらが爆ぜたように、体の中が焦げ付いていく気がした。

 突き上げるような感覚があった。発作に襲われたように居ても立ってもいられなかった。

 気づけば麟太郎は猛然と走り出していた。

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