第一章 花魁護衛

第1話 用心棒稼業

 嫌な風が吹いていた。ぬるく、生臭い風だ。


「くそ、吐き気がする」

 

 麟太郎は顔をしかめて、江戸吉原へと続く道――衣紋坂えもんざかを横目でにらんだ。

 こんなところは一刻も早く通り過ぎるに限る。


「おい、こら。なぜいきなり急ぐ」


 後ろを歩く連れから文句が出るのも構わず、麟太郎は大股で道を行く。


 江戸の日本堤にほんづつみ。周りにあるものといえば田んぼばかりといった辺鄙へんぴな場所である。

 江戸の町から離れた浅草寺の裏手であり、江戸の花街、吉原があるところでもあった。衣紋坂は日本堤から吉原に向かうための坂道である。吉原に来る男たちを当て込んだ茶屋や商家が軒を連ねる五十間道ごじっけんみちを三回ばかりくねくねと曲がると、その先には吉原の入り口である大門が建っている。


 吉原がこんな不便な場所にあるのは、火事の心配を理由に三代将軍家光の時代に浅草寺裏へと移転させられたという話だが、その実態は不浄な者たちが住まう場所を、なるべく江戸城から遠ざけるためであった。


「ほう。おまえ、吉原が嫌いか?」


 背後からどこか満足そうな声がかかった。先ほど文句を言ってきた甲高い声とは違い、低く深みのある声である。

 麟太郎はちらりと後ろに見やった。

 

 狐顔の男とやたら見目の良い武士が連れ立って歩いている。声を発したのは武士の方である。武士というよりは役者といった方がしっくりくるような、おそろしく端正な顔立ちの男で、切れ長の目は涼しげを通り越して、見る者に怜悧れいりな印象を与える。

 どうやら麟太郎が吉原をさっさと通り過ぎようとしたことに気づいたらしい。


「ああ」


 ぶっきらぼうに答えた瞬間、後ろから脳天めがけて固いものが打ち下ろされた。


「痛て!」


 反射的に抗議の目を向けると、焦りと怒りをちょうど半々に混ぜ合わせた狐顔の男が、手にした扇子せんすを握りしめながら、隣を歩く役者武士の様子を気遣わしげにうかがっていた。


 狐顔は役者武士が特に気にした様子がないことを確認してから、麟太郎の耳元に顔を寄せてきた。


「言葉に気を付けろ! あの方はわしの一番の得意客になる予定のお方じゃ。もし機嫌を損ねてみろ。ただじゃ済まさんぞ」


 狐顔はそれだけ言うと、顔中に怒気をみなぎらせていたのが嘘のように瞬時に愛想笑いを張り付けて、そそくさと役者武士の隣に戻っていく。

 狐顔の追従ついしょうとご機嫌取りの下卑げびた笑い声を聞きながら、麟太郎はうんざりした。


 狐顔は麟太郎を用心棒として雇っている商人である。扱う品は公にできない闇市の品ばかりで、裏社会ではそこそこ名が通っているらしい。気は小さいくせに口だけはやたらと達者で、今回もこの役者武士と新しい商談がまとまりそうだと、江戸から少し離れた高級料亭まで麟太郎が二人を護衛することになったのだ。


「おい」


 再び役者武士から声がかかった。

 また扇子が飛んできては敵わない。麟太郎は仕方なく、何か、と応じた。


「おまえ、武士か?」


 ふいの質問に、思わず言葉が喉につかえた。否としか答えることができない身分だが、否とは言いたくなかった。必然、黙り込むことになる。

 狐顔が慌てて口を挟む。


「武士だなんてとんでもない! こやつはちょっと刀が扱える程度で。とてもあなた様がお声をかけるような奴では」


 ぺらぺらとよく喋る狐顔の声を聞きながら、麟太郎は密かに拳を握りしめた。

 俺だって親父が酒に酔って人を斬ったりしなけりゃ、いまごろは武士だったんだ。

 そう心の中で呟く。口に出したことは一度もない。


「そうか……。歩き方がどうも武士の足運びに似てたんだがな」


 役者武士はそう言ったきり関心を失ったように口を噤み、狐顔の声ばかりが始終聞こえるようになった。


 昼七ツの日本堤は人もまばらで、麟太郎ら三人の足音だけが規則的に響く。

 連日降り続いた雨の影響か、道はぬかるみ、吹く風はじっとりと湿っている。空もどんよりと沈み、いまにも一雨きそうな空模様である。

 そのうえ、さきほどから風に嫌な臭いが混じり始めていた。腐った魚のような酷い臭い。

 生まれつき鼻が利く麟太郎はとっくに気づいていたが、狐顔もようやく異臭に気づいたようで、しきりと鼻をふんふん鳴らしている。


「お、おい中沖……この臭いはまさか」


 麟太郎が返事をするより早く、役者武士が、来る、と呟いた。

 左手にあるやぶが音を立てて揺れたかと思うと、一つの影が転がるように飛び出してきた。


「なっ!」


 抜きかけていた刀をぴたりと止め、麟太郎は〝それ〟を凝視した。

 鮮やかな紅。きらめく金糸。それら咲き乱れる色が見る者の目を奪う。

 歳の頃は麟太郎と同じ、十八歳くらいだろうか。扇形に結ったまげに見るからに高そうな鼈甲べっこう色のかんざしを何本も差し、豪奢ごうしゃな仕掛けは地面を擦りそうなほどに長い。


 吉原の花魁。一目でそうと知れた。

 ごくりと喉が鳴る。まさに息を飲む美しさであった。視線はしっとりと艶っぽく、全身から匂い立つような色香を放っている。なるほど確かにそこいらの町娘とは一線を画している。


 花魁は着崩れた肩口のえりを引き上げつつ、探るような目つきで麟太郎を見た。目じりに引かれた紅のせいか妙な色気があり、麟太郎は嫌悪感を覚えつつも目だけは離せないでいた。

 奇妙な沈黙を破ったのは、役者武士であった。


「斬れ」


 何のためらいも迷いもない声だった。

 冷然と告げられた言葉に思わずそちらを振り向けば、役者武士が酷く醒めきった目で花魁を見ていた。


「き、斬れとは……?」


 狐顔が呆けたように訊き返す。


「その花魁を斬れという意味だが?」


 他に何を斬るのだと言わんばかりに、役者武士が返す。

 その顔には酷薄な笑みが浮かび、異様とも言える嫌悪に満ちていた。世間一般の武士が花魁に対して抱く侮蔑と嫌悪とは桁違いの、ぞっとするほどの強い感情。

 何か見てはいけないものを見てしまった気がして、麟太郎が目を逸らすように花魁へと視線を戻すと、なぜか花魁も麟太郎を見ていた。とてもいま斬れと言われた当人とは思えないほど落ち着き払った顔で。


「ほら、どうした。おまえも吉原が嫌いなのだろう」


 役者武士がまるで試すように、皮肉っぽく笑いながら麟太郎へと声を掛けてくる。

 その声に背を押されるように麟太郎は鯉口こいぐちを切った。柄を握る手に汗が滲んでいく。


 花魁は麟太郎から目を離さない。挑むような強い視線に恐怖の色は微塵もなく、やれるものならやってみろと、その双眸が言っている。

 麟太郎はすらりと刀を抜き放った。鈍い光を放つ刀身に一瞬自分の姿が映り込み、麟太郎は己の顔が怯えたように歪んでいるのが見えた。ぶわっと体中に汗が噴き出した。口の中が干上がり、呼吸が浅く早くなっていく。

 花魁が不敵な笑みを浮かべた。


「ぬしにはできんせんなあ」


 カッと頭に血が上った。全身の血が沸騰し、猛烈な勢いで怒りがこみ上げた。昂る感情に任せて刀を振り上げた。刀の持つ圧倒的な力に飲まれた。いまこの花魁の命は麟太郎が握っている。生かすも殺すも麟太郎次第。刀を持つ者の特権。相手はどうせ花魁だ。日頃抱いてきた花魁に対する侮蔑の感情は、相手を蹂躙じゅうりんできる立場でいともたやすく殺意へと変わった。

 殺してしまえ。


「覚悟!」


 裂帛れっぱくの気合とともに刀を袈裟けさがけに斬り下ろした。

 その瞬間。

 横合いから生臭い風と、殺気をはらんだ何かが振り下ろされた。

 咄嗟に刀を返して、自分へと向けられた殺気に対処する。ガァンッと強烈な衝撃が刀を握る両手に走った。びりびりと痺れる手に耐えつつ、慌てて後ろに跳び退る。

 そこでようやく麟太郎は自分に襲い掛かってきたものを見た。


 人間の背丈をゆうに超える、獣とこの世ならざる者が混ざり合ったかのような異形。腕にあたる部分はびっしりと毛に覆われ、飛び立つ寸前のふくろうの羽のように左右に広げている。人間のように二本足で立っているが、異常なまでに発達した脚の筋肉は馬のようであり、手足の先には鋭い爪が生えている。顔全体は黒くぬらぬらと光り、獲物を見つけたとばかりに顔の一部がすーっと裂けたかと思うと、口のようにニタリと弧を描いた。


「妖かし!」


 生臭い風が吹いてきた辺りから半ば予想していたとはいえ、できれば出会わずに通り過ぎたかった。


「な、な、なにをしておる! 早く斬り倒せ!」


 狐顔が狼狽しきった声で叫ぶ。


「言われずとも」


 このために用心棒の自分がいる。たとえどんなに気に食わない雇い主だろうが、麟太郎の食い扶持は間違いなくこの狐顔である。

 二人を後ろに下がらせ、麟太郎は改めて刀を構え直した。


 相手は三匹。少々やっかいではあるが、これ以上の修羅場などいくらでもあった。

 妖かしが空気を切り裂くような奇声を上げた。

 駆けだす瞬間、麟太郎は役者武士が品定めでもするような目つきで、にやりと笑うのが見えた気がした。


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