第2話 災難は降る

 全ての妖かしを斬り終えたとき、麟太郎はすっかり返り血まみれになっていた。

 刀についた血を振って軽く払う。懐から懐紙かいしを出して丁寧に拭いていると、狐顔と役者武士が近づいてきた。


「やれやれ。やっと倒したか」


 礼を言うような雇い主でないことは百も承知である。気にせず、刀の血糊ちのりを拭く方に専念する。着物は洗えば済むが、刀はそうはいかない。麟太郎の持ち物の中で一番高価なものであり、唯一の財産でもある。

 麟太郎が刀を鞘に戻したところで、役者武士が静かな声で言った。


「逃がしたな」

「は……? なにを、でございましょう?」


 狐顔が不思議そうに尋ねる。

 役者武士は無言で遠くの方を指さした。見ると、その先には例の花魁が走って逃げていく姿があった。

 すっかり花魁の存在を忘れていた麟太郎は、そう言えば居たな、と思った程度だったが、狐顔はみるみるうちに青くなっていった。かと思えば、瞬間でタコのように真っ赤に染まり、つり上がった目を麟太郎に向けた。


「中沖っ! おまえ、いったいなんてことを。どうして花魁を逃がした!」


 あまりの剣幕に、麟太郎は目を白黒させた。


「どうしてもなにも……あの状況で花魁を斬ってたら、こっちが妖かしにやられちまう」

「言い訳など聞きたくないわ! 早く追って殺してこい!」

 狐顔は地団太を踏まんばかりである。

「じょ、冗談じゃねえ。今から追ったって追いつかねえし、誰かに見られたら俺がお縄じゃねえか!」


 狐顔が理不尽な要求を突き付けてくるのはいつものことだったが、今度のは群を抜いていた。抜きすぎだ。いくら花魁とはいえ、殺すところを誰かに見られでもしたら死刑は免れない。

 何を血迷ったことをと思ったが、狐顔はいたって本気のようだった。麟太郎をけしかける傍ら、怯えたようにちらちらと役者武士を窺っている。


 当の役者武士は事の成り行きには一切関心がないらしく、暇そうに麟太郎が斬って捨てた妖かしのむくろを検分している。

 狐顔が焦れたように扇子をバシッと地面に叩きつけた。


「ええい、もうよいわ! おぬしには暇を出す。目障りだ、とっと失せろ!」


 これには麟太郎も慌てた。


「ちょ、ちょっと待てよ。そりゃいくらなんでも」


 言い募ろうとするが、狐顔は聞く耳を持たんとばかりに、首を横に振った。


「おぬしにはほとほと愛想が尽きたわ。多少腕が立つからって図に乗りおって。ほら、行け」


 そう言って野良犬でも追い払うように、麟太郎に向かって、しっしっと手を振る。

 そこまでされてすがりつくなんて無様な真似ができるわけがなかった。


「ああ、くそ! わかったよ。けど今回の分の金は払ってもらうぞ!」


 もうやけくそだった。

 狐顔は忌々しそうに舌打ちをすると、懐から小さな小袋を取り出した。


「薄汚い野良犬が」


 銭の入った小袋がザッと音を立てて、麟太郎の前に落ちた。

 麟太郎は小袋をじっと見つめた。

 屈辱だった。握りしめた拳の中で爪が皮膚に食い込む。うつむいて歯を食いしばり、かっさらうように小袋を拾った。握りしめた掌に数枚の銭の感触。酷く惨めだった。

 さっと立ち上がり、狐顔たちに背を向けて歩き出す。


 背後で狐顔がせっせっと機嫌を取る下卑た声が聞こえ、麟太郎は振り返って、手にした金を投げつけてやりたい衝動に駆られた。

 だができるわけもない。この金が麟太郎の明日からの命をつなぐ糧なのだ。どうしたって金勘定が先立つ。

 麟太郎がどんなに意地を優先させたくても、人間、食う物がなければ死ぬしかない。


「野垂れ死になんてぜってぇごめんだ」


 そう呟き、帰路につこうとして、ふと帰る場所すら失ったことに気がついた。

 麟太郎の住処すみかは、狐顔の住み込み長屋だったのである。




 用心棒をクビにされてから十日ばかりで金は尽きた。

 住む場所すらなかった麟太郎がたどり着いたのは、町外れにある小さな神社のお堂であった。


 昼間でも滅多に参拝者など来そうもない寂れた神社で、申し訳程度の小さな鳥居と、まつられる方が逃げ出しそうなおんぼろのお堂があるだけだった。辺りは背の高い木々が生い茂り、昼間でも地面にまばらな木漏れ日が落ちるだけで、どこかひっそりと暗い。

 そんな仮宅に麟太郎が戻ってきたのは、日も落ちた真っ赤な夕暮れ時だった。


「腹、減ったぁ……」


 お堂の中にごろりと寝転がる。もう足は棒のようだった。

 クビにされてからというもの新たな雇い先を探して江戸中を歩き回っていたが、断られるばかりで一向に収穫はなく、徒労感と焦りだけが募っていく。

 このまま雇い先が見つからなかったらどうなるのだろうか。初めから楽観していたわけではないが、状況はいよいよ切羽詰ってきていた。


 麟太郎は剣術以外に身を立てる方法を知らない。

 父親は御目見おめみえ以下の御家人ごけにん、いわゆる二半場にはんばと言われる家格で、家督かとくを相続させて身分と俸禄ほうろくを伝えることができる身分だった。武士であることだけが誇りのような父親で、いかに武士が素晴らしいか、武士になれる麟太郎は町人たちと比べてどれほど幸福であるかを延々と幼い麟太郎に言って聞かせたものだった。


 その頃の麟太郎は馬鹿がつくほどの素直な子供だったせいもあり、父親の厳しい剣術稽古にも耐え、ひたすら武士になることだけを目指していた。

 そうして麟太郎を形作る全てのものが完全に武士色に染まり切ったある日、父親が召し放たれた。酔って町人に怪我をさせたのだ。以前から酔うと度々刃傷沙汰にんじょうざたを起こしていたこともあり、それは必然ともいえる結果だったが、麟太郎にとっては寝耳に水の話である。


 武士になると思っていた、自分の人生の橋が突然目の前で崩れ落ちたのだ。

 呆然とする麟太郎をよそに、武士という支柱を失った父親はみるみる転落人生を歩み、挙句の果てに麟太郎が十一歳のときに辻斬りに遭って死んだ。母親もとっくに病死していたため、全てを失った状態で麟太郎はぽんっと人生の焼け野原に放り出されたのだ。


 頼れる親類のあてもなければ、家も食べ物もない。あまりにもないものばかりに囲まれたせいで、麟太郎にはかえって己の中にあるものがはっきりと見えた。

 それすなわち自分は武士の子だという絶対の自負。体に脈々と流れるその血は間違いなく武士の血であり、それだけが麟太郎に残されたただ一つの希望だった。


 武士の子は武士になる。たとえ世間的に武士への道が閉ざされていようと、この血がある限り、麟太郎が武士と完全に切り離されることはない。そう信じていた。

 なんとか武家の奉公人に転がり込んだのも、武士との繋がりが欲しかった故の行動だった。

 だが武士になることと、武士に仕えるのでは天と地ほどの差がある。うまくいくわけもなく、奉公主の息子と衝突しまくり、十六歳のときに奉公先を飛び出した。


 その頃にはすっかり世の中に揉まれ、擦れ、幼い頃の素直さなど切れ端ほども残っていなかったが、武士になりたいという思いだけは変わらなかった。むしろ時を経るにつれ、その悲願は強く激しくなっていた。己の腕一本に全人生を懸ける生き方への純粋な憧れもあったが、幼い頃から刻み続けた願いは麟太郎自身が思うより深く、心の奥に根ざしていたのである。


「腹、減っ」


 何度目かのぼやきを呟こうとしたとき、頭上にふっと影が差した。


「起きろ、小僧」


 ゴッ、と頭に衝撃が来た。


「――ッたあぁ!」


 跳ね起き、蹴られた頭頂部を庇って体を丸める。思いもよらぬ一撃は、おそろしく容赦がなかった。慌てて傍らの刀を手元に引き寄せながら言う。


「俺は文無しだぞ!」


 物盗りなら盗ってみろ。そう思って相手を睨むと、そこにはおよそ物盗りとは程遠い恰好をした壮年の男が立っていた。


「な……」


 開いた口がふさがらなかった。

 まるでこれから登城でもするかのようなかみしもを身に着けた、どう見ても身分の高そうな武士が厳めしい顔で麟太郎を見ていた。歳は五十代くらいだろうか。全身から厳粛な雰囲気を立ち上らせ、相対する者を無条件に委縮させる無言の迫力があった。間違ってもこんなすすけ古ぼけたお堂に、ひょっこり現れるような人物ではない。


「その様子なら雇い主は見つかっていないと見える」

「……あんた、誰だ」


 声が自然と尖った。


伊右衛門いえもんと申す」


 きびきびと壮年の男が名乗った。たとえ相手が麟太郎のような浮浪の者でも、武士として最低限の礼を失するわけにはいかないといった若干の苦渋が滲んだ面持ちである。


「それで俺になんの用だ」


 麟太郎の不躾な質問に、伊右衛門が眉を寄せた。意外と考えていることが顔に出る質らしい。

 こちらが名乗ったのだから名乗り返すのが礼儀ではないか。伊右衛門の顔にはありありとそう書かれている。


「……まずは身繕みづくろいをされてはいかが?」


 代わりにそんな言葉が返ってきた。物言いはいたって丁寧ではあるが、その目には麟太郎に対する明らかな侮蔑の色が込められている。


「そいつは悪いが、これが俺の限界でな」


 麟太郎は着物をパッパッと払ってみせた。

 伊右衛門の顔がさらに渋くなる。しかしこれ以上は無駄だと諦めたらしく、呆れたと言わんばかりに吐き捨てるようなため息をついた。


「よかろう。ではこちらに出られたし」


 伊右衛門はそう言って踵を返し、さっさとお堂を出ていく。

 その背中は無防備なようでいて、実に隙がない。相当の遣い手である。何を考えてこんなところまでやってきたのかわからないが、このところの運の悪さを思えば、とうてい良い話が待っているとは思えなかった。


 身構えつつお堂を出ると、そこには十日ほど前に見た顔が立っていた。

 忘れもしない。麟太郎が用心棒の職を失うきっかけになった役者武士であった。

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