第17話 異変

 二戦目の始まりだった。

 麟太郎はすでに血に濡れた刀を振り上げた。早速突っ込んできた妖かしを一刀のもとに斬り捨てる。しかし倒せども倒せども数が一向に減らない。むしろ減るどころか、増える一方であった。妖かしがどこからともなく湧いてくるのだ。


 麟太郎もさすがに息が上がり、動きが鈍くなってきた。


「おい緋里、どうなってんだよ。キリねえぞ!」


「わかっていんす!」


 緋里も押され気味になっていた。立ち止れば即座に取り囲まれてしまうため、素早く移動を繰り返しながら戦っているのだが、高下駄をはいた緋里は何度も足元をもつれさせていた。


 着物をはためかせながら麟太郎の横を走り抜けた緋里が、立て続けに起請文きせいぶんを投げつける。あちこちで妖かしの断末魔の絶叫が響き、起請文が貼り付いた部分から血が噴き出す。


 麟太郎も避け損ねた返り血を浴びたりするが、起請文で殺された妖かしの血は、もっとどろどろしている気がした。あの断末魔の声がそう感じさせるのだろうか。浄化された妖かしの上げる声は、どこか怨念めいていた。


 気づけば周りはもう妖かしの血の海であった。妖かしは死骸が残らない。倒され方によって消えるまでの時間が違ったりもするが、最終的には現れたとき同様にいつの間にか消えている。

 だが、血は残るのだ。一面に広がった血だまりで足元がぬかるむ。

 麟太郎は転びそうになりながら、また一匹を切り捨てた。


 と、ゆらりと体が不自然に揺れた。耳の奥ではさっきから妖かしの絶叫がこだましている。こびりついて離れない。呼応するように視界がぐらぐらと揺れ出す。酷く気分が悪かった。

 振り払うように顔を上げた瞬間、ふいに胃のがぎゅっと縮まり、強烈な吐き気がこみ上げた。堪えきれず、体を九の字に折って吐く。


「麟太郎!」


 緋里が驚いた声を上げ、こちらへ駆け寄ってくる。

 ああ、俺は江戸の民に当てはまるのか。ふとそんな考えが頭をよぎった。

 大丈夫だ、と告げようとするも、再びめまいと吐き気に襲われ、脇に嘔吐する。


「大丈夫でありんすか!」


 慌てた緋里の声が頭上から聞こえ、背中に手が置かれる。


「妖かしの血にあてられんしたね」


 緋里がほっとしたように言う。


「なんだそれ……」


 顔だけ上げてそう問う麟太郎には答えず、緋里が流し目で麟太郎を見下ろす。


「浄化された妖かしの血は人間に害を為す。それにしてもこの程度で音をあげるとは、ぬしもまだまだでありんすねえ」


「うるせえ。……それより、妖かしは」


 麟太郎が口の端を拭いながら言うと、緋里が起請文を妖かしに向かって、ひゅっと投げた。


「いまのが最後の一匹。もう起請文も尽きたでありんす」


「ふう……これでやっと終いか」


 どっと疲労感が押し寄せた。刀を地面に突き立て、よろめきながら立ち上がった麟太郎は目を疑った。


 すべて倒したはずの竹林の向こう――一匹の巨大な妖かしがこちらをじっと見ていた。

 妖かしの真っ赤な目と麟太郎の視線が交錯した瞬間、妖かしは猛烈な勢いで走り込んできた。


「緋里ッ!!」


 反射的に刀を地面から引き抜き、妖かしに背を向けていた緋里の背後に回る。


 刹那――。


 人の背丈の倍以上はある巨体と、刀を盾にした麟太郎が激突した。信じられないほどの衝撃がきた。刀を持った腕がへし折れるような感覚に総毛立った。体中の骨が軋んだかと思うと、物凄い勢いで後方に吹っ飛んだ。背中に何本もの竹が打ち付けられる。痛みに気が遠くなりかけたところで地面にどさっと落ちた。


 まずい、このままじゃ……。


 ぴくりとも動かせない体に絶望を覚える。

 妖かしの赤い目が、ひたと麟太郎に据えられた。真っ直ぐ麟太郎を目指して歩いてくる。さっきのように走り込んでこないところに、妖かしの狂気を見た気がした。


 こいつ……愉しんでやがる。


 実際、妖かしは麟太郎の手前で立ち止ると、いたぶる獲物を見つけたとばかりに口の部分がぬらりと横に裂けた。まるで嗤っているかのようだった。


「く、っそおぉ!」


 何とか動こうとするが、痛みで麻痺まひしてしまったらしく立ち上がることすらできない。絶対的な死への恐怖が全身を貫いた。感情が千々に入り乱れ、口から訳の分からない言葉が迸る。

 妖かしが爪を振り上げた。死が目前に迫る。妖かしが大地を震わせるほどの咆哮ほうこうを上げた。


 もう、ダメだ――。


 目をつむり、死を覚悟した。


 だがいつまで経っても痛みは来ない。恐る恐る麟太郎が目を開けると、目の前が真っ赤に染まっていた。まるで血の雨だった。妖かしの脳天辺りから火柱のような勢いで血が噴き上がり、びしゃびしゃと辺り一帯に降り注いでいる。呆然としながら見ると、妖かしの脳天に赤黒くなった一枚の紙切れが貼り付いている。


「あれは、起請文、か……?」


 大きさからしても起請文にしか見えない。けれど確か緋里は起請文も尽きたと言っていた。


 当の緋里を探すと、妖かしを挟んだ向こうに立っていた。だが様子がおかしい。妖かしの血を避けようともせず、その場に立ち尽くしているのだ。


 麟太郎はまだ自由が利かない体を無理やり動かした。麻痺が徐々に引いてきた代わりに、手足を動かすたびに激痛が走る。苦痛に呻きながら立ち上がり、足を引きずるようにして緋里の元に歩み寄る。


「緋里! おい、緋里!」


 顔を覗き込んで言葉を失った。


 緋里の顔色は紙のように真っ白だった。額には大量の汗が浮かび、目の焦点もどこか合っていない。立ったまま気を失っているような、いまにもふっと倒れそうな気配である。


「緋里……? おい大丈夫か」


 緋里からはまるで生気が感じられなかった。一瞬、死体と向き合っている錯覚に陥り、ぞっとなる。得体の知れない恐怖に襲われた。

 麟太郎は緋里の肩を掴んで軽く揺さぶった。数回目で緋里の瞳に意識が戻ってくる。


「り、麟太郎……」


 ぼんやりと見つめ返してくる緋里を見て、心底安堵した。全身から一気に力が抜け、そのまま座り込みそうになる。


「驚かすんじゃねえよ……」


 緋里が呆けたように目を瞬かせ、はっとしたように視線を逸らした。


「わ、わっちは疲れんした。さっさと帰りんす」


 背を向けて歩いて行こうとする。


「おい、待てよ。いまのどうしたんだよ」


「ぬしには関係ありんせん」


「関係ないって……」


 麟太郎はさらに言い募ろうとしたが、途中で言葉を飲み込む。

 これ以上聞いてくれるな。緋里の目は切にそう言っていた。


「……わかったよ。ほら、もう帰ろうぜ」


 麟太郎の言葉に、緋里が露骨にほっとするのがわかった。

 それから帰路につく間、会話らしい会話はほとんどなかった。

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