第14話 火急浄化

「麟太郎、火急浄化かきゅうじょうかでありんす!」


 そう言って緋里が部屋に駆け込んできたのは、奉行所から吉原へ新たな規制が出されてから数日経った日のことだった。規制内容はあっという間に吉原全体へと広がり、楼主たちが抗議に行くも奉行所はがんとして突っぱねてきたという。


 輝貞が動いた。麟太郎はそう確信していた。

 今回の規制の多くは麟太郎が流した情報がなければ、いくら奉行所とはいえここまで強引には進められないものばかりである。密偵の掴んだ情報を最大限活用する輝貞の手腕はさすが伊達じゃない。


 麟太郎はまるで自分が新たな規制を定めた一人であるかのような気分で、吉原が辛苦しんくを舐める様をどこか誇らしげに眺めていた。が、それも束の間。規制の強硬さと非情な内容から黒羽織党が手を回したに違いないという噂がまことしやかにささやかれ始めたのである。


 まさに黒羽織党の密偵である麟太郎としては生きた心地がしない。いつバレるかと始終ヒヤヒヤし通しだった。

 噂が下火になる頃を見計らって吉原の者たちが揃って憤慨ふんがいするほどひどい内容なのかと写しを見せてもらったが、麟太郎にしてみれば特別理不尽なことが書かれているとは思えなかった。

 そう言うと、緋里と捨助が同時に目をいた。


「馬鹿ぬかすんじゃねえ! これじゃ武士に全部手柄を取られるわ、吉原の外でまともに買い物一つできないじゃねえか!」


「そうでありんす! こんな達しが出れば、わっちらを避ける店も出てくるじゃありんせんか。……きっともう葛屋のまんじゅうも買えんでありんすな……」


 寂しそうに緋里が呟けば、緋里姐さんを悲しませたとばかりに小紫に物凄い形相で睨まれた。


 そして緋里の予感は当たっていた。店の入り口に吉原の者の出入りを禁ずと掲げる店が現れ始めたのだ。それでも吉原を応援すると気張る桜花派の店は、江戸全体に漂い始めた吉原排除の風潮のあおりを食らって、売り上げが激減したという。


「この花落ちってのはなんだか知らねえが、要は奉行所がタダで治してくれるってんだろ。気前の良い話じゃねえか」


 麟太郎が言うと、緋里はサッと目を逸らし、捨助は小さく舌打ちをした。

 緋里が麟太郎の手から写しをひったくる。


「四つ目のなんて、おそろしく質の悪い法度でありんすえ。まったくこれを書いた武士はさぞ腐った性格でありんしょうな」


 忌々しそうに写しを文机の上にぺしっと叩きつけた。


 いまはまだ吉原を表立って排除しようとする動きは出ていないが、今回の規制を受けてどことなく源平派の勢いが強まっていることは、町に出る麟太郎も肌で感じたことだった。


 源平派の隆盛を内心で嬉しく思いながら、外堀からじわじわと吉原を追い詰めようとする輝貞の徹底さと、異常なまでに吉原に執着し、容赦なく潰しにかかれる卓抜した手腕に、一瞬だけ背筋が冷えるような気がした。

 それに世間がどれほど源平派に傾こうが、麟太郎が花魁護衛である状態に変わりはない。


 吉原にきてもう半月ほど経つが、麟太郎が浄化の護衛をしたことは一度もなかった。護衛とは名ばかりで刀を振るうどころか手入れ以外に抜くことすらない日々である。

 もっともそのおかげで麟太郎は大いに密偵業に励んでいたのだが。


 昼八ツを四半刻ほど過ぎ、今日も特に用事がなければ外に情報を集めに行こうと、緋里の部屋を尋ねると、ちょうど緋里が長い打掛うちかけを引きずりながら部屋を出て来るところだった。青地に水仙が描かれた着物は涼やかで、緋里の周りだけ夏の暑苦しさが払われているようである。


「あぁ、麟太郎」


 緋里が頭を動かす。しゃらりとかんざしが鳴った。


「何だ? どこか行くのか」


「昼見世に客が来んした。今日は何もありんせんから自由にしていなんし」


 そう言って部屋を出ていく緋里を、小紫が嬉しそうに笑って見送る。とんっと障子を閉め、麟太郎の方に向き直った小紫の顔には、笑顔の〝え〟の字もない。小紫の笑顔は緋里にだけ向けられる。小紫も緋里に負けず劣らずの器量だが、いかんせん表情が乏しい。無口であることも相まって、初めの頃は緋里がいないと恐ろしく間が持たなかった。


 小紫は麟太郎などまるで見えていないといった様子で、ちょこちょこと文台のところに行くと、文台の上に載った小さな包みを大事そうにそっと開ける。


「あ、大福餅……」


 緋里からもらったのだろう。どうやらいま食べるつもりらしい。


「いいなあ、おまえは。何かと緋里のおこぼれが貰えて」


 麟太郎がわざとらしく呟くも、小紫は聞こえないふりをする。


「なあ、一口分けてくれよ」


「嫌でありんす」


 にべもない。


「あーあ。腹が減った。天ぷらそばが食いたい、酒が飲みたい」


 小紫がちらりと麟太郎を見る。


「……何も食べてないのでありんすか?」


「そりゃ俺たち花魁護衛は価値が低いからな。飯だって粗末なもんさ」


 麟太郎は大げさに嘆く。まあ、事実ではある。

 小紫がじっと手の中の大福餅を見つめる。しばらくそうしていたかと思うと、おもむろに大福餅を三分の一ほどちぎった。小さい方を麟太郎に向かって差し出す。


「あげんす」


 まさか本当にくれるとは思っていなかった麟太郎が呆気にとられていると、小紫は不思議そうに小首を傾げた。


「いりんせんか?」


「あ、いや……いいのか?」


 小紫は小さく頷いた。


 ありがたく受け取り、大福餅をかじる。懐かしい甘さが口に広がる。不思議と昔食べた記憶の中の味よりもおいしい気がした。

 麟太郎が大福餅を堪能していると、慌ただしい足音が廊下から響いた。


「緋里姐さんの足音」


 小紫がぽつりと呟いたのと、ものすごい勢いで障子が開け放たれたのは、ほぼ同時であった。

 出て行ったばかりの緋里が血相を変えて立っている。


「な、なんだよ。これは小紫がくれたんであって、奪ったわけじゃ」


「出るでありんす!」


 開口一番そう叫ぶ緋里に、麟太郎は目を瞬かせた。


「出るって……どこに?」


「火急浄化!」


 ぎくりとした。恐る恐る場所を聞けば、案の定、浄化指定外の場所である。


「ちょ、ちょっと待て。そこで浄化したら処罰が」


「だからって見捨てるわけにはいきんせん!」


「そりゃ気持ちはわかるが、俺は花魁護衛で処罰されるなんて真っ平ごめ」


 いくら密偵とはいえ、それでは本末転倒である。

 緋里が怜悧れいりな微笑みを浮かべた。


「陰間になりたいでありんすか」

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