第15話 花魁道中

 そうして半ば引きずられる形で、麟太郎は初の護衛に出ることになった。

 人を急がせるだけ急がせておいて、妓楼を出た後の緋里の歩みはじれったくなるほど遅々ちちとしていた。高下駄たかげたなのである。走るどころか、歩くことすら危うい。

 緋里が当然とばかりに麟太郎の肩に手を添えた。触れられた瞬間、ぞわりと鳥肌が立った。


「もしわっちの手を払いのけたら、陰間に堕としんすえ」


 耳元で緋里にささやかれ、麟太郎は奥歯をぎりぎりと鳴らした。

 まさに絵に描いたような、華やかな花魁と忠実なる下僕げぼくの図である。


 明石屋の緋里の名はさすがに伊達ではなく、浄化に出る彼女を一目見ようと通りにはいつの間にか左右に人だかりができていた。その真ん中をゆるりゆるりと練り歩いていく。とても火急の用事があるようには見えないが、これが吉原のしきたりらしい。


「こりゃ運が良い! 張見世以外で緋里花魁を見られるなんて滅多にあるもんじゃねえ」


「なんでも火急浄化に出てくれるらしいぜ」


「本当か? 火急浄化に?」


「さすがは俺たちの緋里花魁! 粋だねえ!」


 町の人たちの口ぶりに疑問を持った麟太郎が小声で訊けば、昼三花魁が火急浄化に出ることは基本的にないらしい。


「じゃあ、なんでいまは出てるんだよ」


「この間、唐橋花魁と睡蓮花魁が身請けされたでありんしょう。わっち以外、出られる者がおりんせん」


「ああ。身請けねえ」


 身請けを喜ぶ花魁の姿を思い出し、不快感がこみ上げる。

 彼女たちは自由と引き換えに、己の体を――。


 花魁なんてものは町の人たちの前では清廉さと気高さを装いながら、影では不浄な己を嘆き、身請け話が出れば一も二もなく飛びつく。緋里も口先では綺麗ごとを並べ、さも潔白そうな顔をしているが、一度や二度くらいは……。

 そこまで想像して全身が総毛立った。反射的に肩に置かれた手を振り払いそうになる。 


「そう言えばぬしに浄化について何も話していなかったでありんすなあ」


 麟太郎の心中など知る由もない緋里が思い出したように言った。


「不浄なもんに興味はねえよ」


 緋里が鼻白んだのがわかった。軽く横目で睨まれる。


「残念ながら、ぬしはその不浄の一味でありんすえ」


「はっ、冗談じゃねえ」


 俺は源平派の密偵だ。心の中で呟くと、少しだけ溜飲りゅういんが下がった。


「……まあいいでありんしょう。浄化というのは男が依頼に来るものと、いきなり町中に妖かしが出た場合の火急浄化、この二通りがありんす。依頼浄化は妖かしの目撃情報が多くなった地域を、妖かしが出る前に浄化するもの。これでしばらくその辺りには妖かしが出なくなる。まあ予防でありんすな」


 花魁の浄化と言えば、一般的に依頼浄化を差す。男たちが夜な夜な吉原を訪れるのは、この依頼浄化のためである。会ってすぐに浄化の依頼ができるわけではなく、花魁が浄化に出るまでには何度も訪ねる必要があるのだ。一度目は〝初会〟、二回目の登楼を〝裏を返す〟といい、三回目の〝馴染み〟となってようやく花魁は浄化を引き受ける。


「馬鹿ばかしい」


「……吉原のしきたりでありんす」


 やや間を置いて答えたところを見ると、少なからず緋里にも思うところがあるらしい。

 麟太郎らは江戸の外れまで来ていた。吉原を出たときはあれほど晴れていた空が、いまはどんよりと曇ってしまっている。夕立でも降りそうな雰囲気である。そして異様に蒸し暑い。


「それで、この火急浄化ってのは?」


「火急浄化は妖かしが出た後にこうして駆けつけて浄化することでありんす」


「江戸の人間にとっちゃ、火急浄化の方がよっぽど重要じゃねえか」


 緋里が頷く。


「そうでありんす。何しろ妖かしが町に出たらそれは一刻を争いんすからな。男たちが一時しのぎをしてる間に、奉行所と吉原に連絡が来るでありんす」


 最近の江戸ではよく見かける光景だった。大名行列を横切っていいのは、産婆とこの妖かし出現の一報を伝える者だけである。妖かし退治が奉行所の管轄なのは知っていたが、吉原にまで連絡が言っているとは思わなかった。町中に突如現れた妖かしを退治するのは奉行所の人間、つまり武士であり、予防の部分を武士と花魁が取り合っている、というのが麟太郎の認識だった。


 麟太郎がそう言うと、緋里はさも嫌そうに顔を顰めた。


「冗談じゃありんせん。奉行所がまともに動いたことなんて、ただの一度もありんせんえ。あいつらはいつだって妖かしがすっかりいなくなった頃を見計らってやってきては、吉原の手柄だけを横取りしていきんすから」


「馬鹿なこと言うんじゃねえよ。奉行所がそんなことをするわけねえだろが」


 緋里が冷めた目で麟太郎を見る。


「ぬしにもそのうちわかるでありんしょう。ともかく、火急浄化のために吉原には浄化番という決まりがありんす」


「浄化番ねえ……」


「大見世だろうが小見世だろうが順番で火急浄化の役割が回ってきんす。金は妖かしが出た地区の自治費からもらっておりんす。一律一分でありんすな」


 妓楼の相場を麟太郎は知らない。だが花魁への依頼代が庶民にとってべらぼうに高いということぐらいは知っている。火急浄化でその値だというのだから、依頼浄化についても推して知るべしというわけである。


「火急浄化は附廻つけまわしの仕事。昼三花魁が出たんじゃ、見世としては割が合いんせんからな。……もっとも附廻以下の花魁じゃ浄化能力も弱いから、浄化してもまたすぐに妖かしが出てしまいんすが……」


 つまり火急浄化は見世にとって宣伝のようなものなのだ。一時の平和を味わえば、人は誰でもその平和が少しでも長く続くことを望む。そうなればより浄化力の強い昼三花魁に依頼するしかない。


「そいつは自慢か?」


 麟太郎は揶揄するように笑った。


 吉原を出るまでも、出てからも緋里の人気ぶりは凄まじかった。緋里がどれほどの浄化力とやらを持っているのかは知らないが、身請けを喜ぶ花魁たちの素顔を見た麟太郎にしてみれば良い面の皮である。


「自慢? わっちがいつ自慢なんて……あぁ、そういうことでありんすか。まあ、わっちは吉原でも指折りの昼三花魁。口先ばかりの武士から見れば、さぞ羨ましいでありんしょう?」


 緋里が自信たっぷりの笑みを唇に乗せ、艶やかに笑う。


「うらやま!? 花魁が羨ましいなんて死んでも思わねえ! 虫唾が走る!」


「ふん、お互いさまでありんす」


 緋里が、べーっと舌を出す。なまじ顔立ちが整っているせいで憎たらしさ倍増である。

 麟太郎が本気で怒ろうと口を開くより先に、肩に置かれた緋里の手に力がこもる。


「着きんした」


 そこは竹林沿いの街道だった。街道の両端には背の高い竹が生い茂り、わずかに差し込む日光が道に何本も竹の影を作っていた。昼間ということもあり、人の往来も多い。とても妖かしが出るようには見えなかった。


「本当にここか?」


 麟太郎が問うと、緋里は険しい顔つきで頷いた。


「油断していんすと、痛い目に遭いんすよ」


 まるで何かを探るように緋里の視線がせわしなく右へ左へと流れる。

 そんな緋里を道行く人々が物珍しそうに見ていく。


「花魁だ……」


「なんだ、なんだ。ここで浄化か?」


 ふいに緋里が街道から外れて竹林へと入っていく。麟太郎も後に続いた。さっきから周囲に気を配っているが、妙な気配もそれらしい影もない。あちこちで絶え間なくせみが鳴き、ときおり鳥のさえずりが混じる、いたってのどかな風景だった。


 麟太郎が辺りを見回していると、少し前を行く緋里がぴたりと立ち止った。何事かと麟太郎も足を止めるが、緋里は何かを考えるような仕草をしたかと思うと、すぐにまた歩き始めた。


 だが、その歩き方がさきほどとは違う。


 腰を軽く落とし、足を大きく外に開いて踏み出す。緋里の右足がゆるやかに弧を描いた。高下駄が地面すれすれを掠め、八の字形で着地する。外八文字と呼ばれる独特の歩き方であった。


 それはまるで厳かな儀式のような光景だった。

 どこまでも続く竹林の中、緋里の深緋色の着物が鮮やかに舞う。

 いつの間にか鳥の声はおろか、うるさいほどに鳴いていた蝉までがぴたりと鳴き止んでいた。あらゆる音が途絶えた静謐せいひつさの間を縫うように、緋里が足を運ぶときの衣擦れの音だけがかすかに響く。


「これが、花魁道中……」


 息を飲んだ。神秘的な気配に飲まれ、緋里から目が離せない。

 張見世にいるときの気高い獣のような姿とも、ましてや普段の緋里とともまるで違う。凛とした表情は恐ろしいほどに冴えわたり、この世の何者からも隔絶された、ひどく遠い存在に見えた。妖かしに対して感じているのが怖れであるとするならば、いまの緋里に感じているのはおそれであった。


 そして得体が知れず、どこかに危うさをはらんだその姿を、なぜか麟太郎は美しいと感じていた。あれほど不浄と蔑んでいたはずの花魁であるのに、心を引き付けてやまないのだ。たとえるなら血に濡れてこそ昏い輝きを増す妖刀のように、儚さと強さが入り混じった不安定さにどうしようもなく惹かれてしまうように。


 緋里が高下駄で歩くたびに枯れた葉がザザッ、ザザッと鳴る。緋里は円を描く形で歩き、大体半分ほどまで進んだところだろうか、ふっと一陣の風が吹いた。その風に乗ってきたのか、辺りにぷうんと生臭さが漂う。

 麟太郎は思わず顔をしかめた。鼻を覆おうと持ち上げた腕が途中で止まる。


「あ……」


 竹と竹の間に突如として黒っぽいもやがかかった。その靄が一か所に吸い込まれるようにして集まっていくのだ。見れば、あちこちで同じようなことが起きていた。初めは薄い影のようだったが、それはみるみるうちに濃さを増し、妖かしの形へと変じていく。


「出やがったな」


 麟太郎はすかさず抜刀した。

 妖かしの数は多くない。麟太郎一人でも相手にできる数であった。


「ぬしにはそちら側を任せんした」


 麟太郎と背中を預け合う形になった緋里が言う。


「わかった。って、そっちは!?」


 頷きかけた麟太郎が慌てて振り返ると、緋里はすでに浄化を始めていた。ぶつぶつと何事かを小さく口の中で呟いている。


「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前」


 すると、緋里が外八文字で歩いた円より内側に入ってきた妖かしの動きが、のろのろと緩慢になり、次の瞬間には蝋燭の火が吹き消されるように、ふっ、と掻き消えた。


「いまのは、九字か……?」


 それはかつて武家によって没落したという陰陽師が用いていた呪文の一種であった。


「ほう、武士はそう呼ぶのかえ。花魁の世界では、口説くぜつというのでありんす」


 緋里がうっすらと笑う。


 かつて武家によって堕ちた陰陽師の手法を、花魁たちが浄化という形で使い、武士から再びお役目を奪い返したとは何とも皮肉な話だった。

 思わず顔を苦くしたところで、一匹の妖かしがもう目前に迫っていた。


「おっと!」


 小手調べとばかりに刀で受け止めて弾き返す。妖かしが体勢を立て直すより早く、袈裟斬けさぎりに斬り伏せた。妖かしが血を噴いて倒れ込む。その音に反応したかのように、妖かしが麟太郎の元にどっと押し寄せた。鋭く光る爪を視界の端でとらえてかわし、避けた先にいた一匹を横なぎに払う。ざっくりとした手ごたえがあった。

 妖かしの身体は斬ると妙な感覚を返してくるのだ。全体的には不気味にぶよぶよとしており、それでいて骨なのか何なのかわからない部分があって、時折ごりっと刃が滑りそうになる。

 麟太郎は柄を握る手に力を込めた。


 昼間にみると、赤い目も、裂けた口の中でギチギチと鳴る白い歯も夜ほどの恐怖は感じない。

 緋里の方にも気を配りながら、目に入った端から斬り倒していく。


 あらかた片付いた、そのときだった。

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